
エファレム・ コッセイフィ
ニュー・ヨーク・シティ: 2001年9月11日、就任したばかりのジョージ・W・ブッシュ大統領は、突然、自分が戦時中の大統領であることに気づいた。
「今日、我々の国は悪を目の当たりにした」と、ホワイトハウスでの落ち着いた演説で宣言した。世界中からの支援に感謝しつつ、「アメリカとその同盟国は、テロとの戦いに勝利するために共に立ち上がる」と表明。
テロリストグループを匿っている国は、今後は敵対政権とみなすとブッシュ氏は宣言。議会の合同会議の前で、彼は外交政策の新しいアプローチを発表した。「我々のテロとの戦いは、アルカイダから始まるが、それだけでは終わらない。世界中届く限りのすべてのテロリスト集団を発見し、阻止し、敗北させるまで、それは終わらない。」
このようにして9.11以降のアメリカの歴史が始まり、その後20年間、「テロとの戦い」で勝利を収めることがその中心となった。同時多発テロの後、アメリカ人たちはテロを起こした敵が罰を免れることを恐れた。
そこで、アルカイダに照準を合わせた。オサマ・ビンラディンは、アフガニスタンのタリバン政権の保護下にあると考えられ、連邦当局によって主要な容疑者とされた。ブッシュ大統領はタリバンに対し、ビンラディンをはじめとするアルカイダのリーダーたちを引き渡すか、彼らと運命を共にするかを要求し、そしてタリバンはそれを拒否した。
ブッシュ氏はその後、9.11同時多発テロの犯人に対する武力行使を認める議会の共同決議に署名し、法律を制定した。
この決議はその後、ブッシュ政権がテロ対策の法的根拠としてさまざまな場面で引用してきた。アフガニスタンやイラクへの侵攻、政府による監視体制の拡大、キューバのグアンタナモ収容所の建設などだ。
2001年10月7日、「不朽の自由作戦」と銘打ったアフガン戦争が始まった。アメリカとイギリスの空爆は、アルカイダとタリバンの戦闘員を標的とし、地上戦のほとんどは、タリバンとアフガニスタンの敵対勢力である北部同盟とパシュトゥーン人勢力との間で行われた。
2年後の2003年、NATOが統括する国際治安支援部隊の一部として約8,000人のアメリカ軍が残っていたが、ドナルド・ラムズフェルド国防長官は、アフガニスタンでの主要な戦闘活動の終了を宣言した。
それとほぼ同時に、アメリカは新たな戦争の準備を始めていた。
ブッシュ大統領は一般教書演説の中で、北朝鮮、イラン、イラクの3カ国を「悪の枢軸」と呼び、これらをアメリカの安全保障に対する脅威とした。そして2003年3月20日、ブッシュ氏は米軍がイラクで軍事行動を開始したことを発表し、サダム・フセインの大量破壊兵器とその独裁的な支配を破壊することを誓った。
空爆によってイラクの指導者の地位を奪うという最初の試みは失敗に終わり、地上侵攻への道が開かれた。
それから2カ月も経たないうちに、2003年5月1日、ブッシュ大統領は「任務完了(Mission Accomplished)」と書かれた横断幕を背に、空母エイブラハム・リンカーンの甲板から、イラクでの主要な戦闘活動の終了を宣言した。
ラムズフェルド氏は、イラクの無法地帯や小競り合いを「死に損ない」の必死の行動と断じた。
サダム・フセインの軍隊は解体された。サダム・フセインは捕らえられ、裁判後、絞首刑にされた。その後民主的な選挙が行われた。
その間、10万人のイラク市民と5,000人以上の米軍・同盟軍が犠牲になった。アメリカがイラクで戦っている間、アフガニスタンで最初に敗れたタリバンは再編成され、攻撃はエスカレートし、戦争は20年間続いた。何万人もの人々が殺され、何百万人もの人々が避難した。
ビンラディンはオバマ大統領時代の2011年5月2日まで捕らえられずにいたが、米海軍特殊部隊がパキスタンの隠れ家を急襲したことで、その生涯を終えた。
今年の夏、米国とタリバンの合意に基づき外国軍が撤退を表明すると、タリバンは攻撃を開始し、8月15日には首都カブールを占領するなど、急速な進撃を開始した。
ハーバード・ケネディ・スクール(ハーバード大学公共政策大学院)の試算によると、米国のアフガニスタンとイラクでの戦争の総費用は最大で6兆ドルに上り、これは米国史上最も高額な戦争となる。
たった1人の米軍兵士をアフガニスタンに派遣するための推定平均費用は年間100万ドル以上で、納税者1人あたり約4,000ドルの負担となる。
海外での2つの戦争と並行して、アメリカ国内でも対テロ戦争が展開され、安全保障国家の劇的な再編成が始まった。
2001年11月13日、ブッシュ大統領は、アルカイダ関係者やテロ活動に関与した米国市民以外を裁く軍事法廷を設置する命令に署名した。ブッシュ政権は、テロリストとして告発された人々を、拘束の合法性を争えないグアンタナモに収容した。
初期の158人の被収容者は、敵性戦闘員に指定され、ジュネーブ条約の保護の対象外となった。
グアンタナモでの「強化された尋問方法」には、睡眠妨害や水責めなどが含まれていた。米国内では、このような尋問方法の合法性、強要された囚人が話す情報の質、倫理性について多くの議論が交わされた。
その後、2004年にイラクのアブグレイブ刑務所で囚人が虐待されている写真が公開されると、米国の政策が世界的に厳しく批判されることになった。
一方、アラブ系アメリカ人、南アジア人、イスラム教徒は、国中で即座に攻撃、脅迫、暴言、嫌がらせの対象となった。
パキスタン人コミュニティのモスクに火炎瓶が投げ込まれたり、イエメン人が経営する会社にアサルトライフルが撃ち込まれたり、心に傷を負ったクウェート人の学生がワシントンの大使館で精神的なカウンセリングを受けたりした。
アメリカでは「イスラム恐怖症(Islamophobia)」という言葉が政治的に使われるようになった。
ブッシュ氏は、人々に復讐心を抱かないように呼びかけた。「ニューヨークには何千人ものアラブ系アメリカ人が住んでいて、同じように国旗を愛していることを心に留めておくべきだ」と述べた。
これらのコミュニティに対する長年の嫌がらせの原因として、政府が進めた、議論の的となる2つの政策が存在する。この政策は非難され、同時に、基本的な市民的自由や国の基礎となる理想が失われることを恐れた一般のアメリカ人の怒りを呼び起こした。
9月11日からわずか10日後、ブッシュ政権は、さまざまな機関が攻撃の危機を見落としていたのではないかという厳しい問いかけに直面し、国内の安全保障を統括する新たな組織の設立を発表。
そして、22もの機関が、新たに設立され、国土安全保障省(DHS: Department of Homeland Security)に吸収された。国土安全保障省の任務は、テロ対策、自然災害からの復旧、米国国境の保護と規制、サイバー攻撃からの防衛などである。
組織名に含まれる「ホームランド(homeland)」という単語に関しては、多くの人が拒否感を覚えた。ラムズフェルド氏自身、「ホームランド・ディフェンス」はアメリカ的というよりもドイツ的な響きがあり、孤立主義の匂いがして違和感があると述べていた。
また、DHSは移民帰化局を丸ごと吸収し、その機能を移民・関税執行局(ICE)に移した。DHSの中でも、ICEほど忌み嫌われている機関はないだろう。
2001年以降、ICEは毎年、犯罪歴のない数十万人の人々を拘束してきた。その数は、トランプ大統領時代に40%も急増した。
ICEの捜査官は、裁判所や病院、さらには対象者が子どもを学校に送りに行く際中でさえ逮捕活動を行ってきた。例えば、カンザス州でサイード・ジャマール氏が子供たちの登校準備中に自宅前の芝生で逮捕された例がある。
ジャマール氏は化学の教師で、アメリカに30年住んでおり、犯罪歴はなかった。
以来、多くの人がDHSを「無駄で、無能で、虐待的な巨大機関」として廃止すべきだと主張しており、上院国土安全保障委員会を務めたオクラホマ州のトム・コーバーン上院議員(共和党)は、在任期間の終わりに「DHSの主要な国内テロ対策プログラムは、国家のテロ対策にとってほぼ価値がない」と宣言した。
DHSの設立以前の、政府の監視権限拡大のもう一つの象徴が、やはり9. 11の数週間後に議会で圧倒的支持を得て可決された米国愛国者法である。この法律は、政府に様々な新しい権限を与えたが、その中には、通信記録の収集や、テロの疑いがある者への尋問をより容易にする条項も含まれていた。
政府のプライバシー・市民的自由監視委員会による調査結果では、次のように述べられている。「米国への脅威に関連して、通話記録プログラムがテロ対策捜査の結果に具体的な結果をもたらした例は1つもない」と述べている。
オバマ政権は、同法がテロ事件の捜査に「非常に役立った」と述べている。
Twitter: @EphremKossaify