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建国記念日に思い起こされるサウジアラビア統一のための壮絶な苦闘

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25 Feb 2024 12:02:23 GMT9

2024年2月第4週、サウジアラビアは建国297周年を祝う。サウード王家の始祖イマーム・ムハンマド・ビン・サウードが、1727年のこの日、ディルイーヤの統治者となったのだ。ディルイーヤは、当時、似たような集落が数多く点在する120 kmのワディ・ハニファ沿いのありふれた農村だった。

イマーム・サウードは、1765年に死去し、その息子であるアブドルアジーズが後継者となった。彼らは、親子2代で、歴史上初めてアラビア半島の大部分を統一したのだった。アブドルアジーズが1803年に外国の工作員によって暗殺されるまでに、ディルイーヤ首長国の支配地域はアラビア半島の約80%、200万平方km以上に拡大していた。それ以来、サウジアラビアの国境線は短期間の中断はあったもののほぼ変わっていない。

分断された政治的または部族的構造や地域の広大さを考慮すると、アラビア半島の統一は前例のない偉業だった。18世紀初頭、数百に及ぶ自治的な町や村落、都市がアラビア半島全土に存在していた。それらの間の平和を維持する中央政府は存在していなかった。ディルイーヤからわずか半径80 km以内の範囲では、10前後の首長国が常に争い合っていた。時には、数年で統治者が変わる町も珍しくはなかった、こうした独立した町の間の砂漠は、遊牧部族が支配し、彼らは通過しようとする隊商からは通行税を取り立て、必要があれば村落を襲っていた。遊牧部族は、また、近隣の競合する集落を征服しようとする首長の傭兵になる事もあった。

19世紀の医大な歴史家オスマン・ビン・ビシュルは、新国家樹立前後の出来事を記録している。1721年、東方から略奪を意図する部族がディルイーヤと近隣の複数の町を包囲し襲撃した。ビン・ビシュルは、ディルイーヤとその周辺の地域における部族間紛争ではそれまであまり知られていなかった部族が襲撃時に使用した大砲による壊滅的な被害について書き記している。

ビン・ビシュルは、他部族による襲撃や近隣集落間の耐え間の無い衝突の他に、戦争による貿易の頻繁な中断や度重なる干ばつによって農業が被る悪影響といった理由により、経済状況が悪化していたと書き残している。1716年には、ディルイーヤ近郊の複数の町で飢饉が発生した。1724年と1725年には、同地域で深刻な干ばつが発生しその結果飢饉が引き起こされたことをビン・ビシュルは記録している。1726年には、疫病によってディルイーヤの北約30 kmの町の住民のほぼ全てが死亡した。

分断された政治的または部族的構造や地域の広大さを考慮すると、アラビア半島の統一は前例のない偉業だった。

アブデル・アジズ・アルワイシェグ

イマーム・サウードが1722年に統治を開始した時期の状況は、こうしたものだった。この混乱を終結させようと決意したイマーム・サウードは、同盟関係の構築を開始し、近隣の町の統治者たちを説得し、その後は八面六臂の奮闘ぶりを見せた。1744年、イマーム・サウードは、宗教改革者のシェイク・モハメッド・イブン・アブドゥル・ワハブの協力を得て、分断されていた町や村の戦士たちを、新たに成立した連合体を守る強力な軍隊へと統合していった。

ビン・ビシュルは、新たに樹立された国家がもたらした治安の変化を記録している。巡礼者や交易の隊商、その他の旅行者たちは、金や財宝を運んでいても、通行税を払うことも街道強盗を恐れることなく、長距離を不安なく移動出来ると実感するようになった。それは驚くべき変化だったという。

イマーム・サウードの新たな国家は成功し、他の数々の首長国の協力や同盟が得られるようになっていった。その中には、それまでオスマン帝国の名目上の支配下にあったマッカやマディーナなどの聖都市や東部地域なども含まれていた。

スペインの探検家で密偵だったドミンゴ・フランシスコ・ホルヘ・バディア・イ・レブリチは、1805年にマッカが新国家に加入した際の儀式を目にし、その記念碑的な出来事を記録し報告している。当時イスラム勢力として最強だったオスマン帝国は、聖都市を支配下としておくことが自国の真正性を証するのに役立つため、国家となったサウジアラビアと全面的に戦う決意をした。バグダッドを拠点とするオスマン帝国軍やイラクの同盟部族を通じて以前からサウジアラビアを消滅させようと試みていたオスマン帝国だったが、18世紀後半に遠征を繰り返しても、サウジアラビアの国力を削ぐことは出来なかったのだ。

しかし、マッカが正式に新国家に加わった後、オスマン帝国は3つの大規模で組織的な遠征を行った。最初の2回の遠征(1811~1814年)は、軍事力の点で有利だったにも関わらず失敗に終わった。第3回目の遠征は、2年間(1816~1818年)に及び、ディルイーヤへの到達に成功し、6ヶ月間の包囲を行い、最終的にはディルイーヤを破壊し、1727年の建国宣言から91年後に第一次サウード王国を終焉させた。この3回の遠征は、非常に残虐で破壊的だったため、サウジアラビアの集合的記憶に消えることの無い汚点を残し、サウジアラビアの人々は祖先が経験した当時の血生臭い戦いを現在も語り継いでいる。オスマン帝国による破壊の跡は、今もディルイーヤの遺跡に残っている。

巡礼者や交易の隊商、その他の旅行者たちは、金や財宝を運んでいても、通行税を払うことも街道強盗を恐れることなく、長距離を不安なく移動出来ると実感するようになった

アブデル・アジズ・アルワイシェグ

しかし、1818年の敗北によって、アラビア半島の統一というサウード家の大望まで潰えたわでではなかった。歴史上初めて第一次サウード王国のもとでの団結と統合の恩恵に浴した人々は、再挑戦の決意を固めたのだった。1824年には再結集が果たされ、イマーム・トゥルキ・ビン・アブドラが新首都リヤドに居を定め、この都市の外国支配を短期間で終結させた。第2次サウード王国は、内紛に悩まされ、1891年にトルコの臣下によって再び終焉を余儀なくされた。第2次サウード王国の最後の支配者となった現在のサルマン国王の祖父イマーム・アブドゥル・ラーマンは亡命の身となった。

しかし、その11年後、イマーム・アブドゥル・ラーマンの息子のアブドルアジーズが3度目のサウード家による統治の確立に成功した。アブドルアジーズは、1902年に首都リヤドを再征服し、その後30年の間に、アラビア半島の再統一を完遂したのだった。1932年、サルマン国王の父であるアブドルアジーズがサウジアラビアの国王に即位した。

オスマン帝国だけがサウード家による統治にとっての脅威ではなかった。ディルイーヤ首長国が湾岸まで国境を拡大し、現地の統治者と緊密な関係や同盟を結んだことから、英国は第一次サウード王国の影響力の強大化に対して懸念を抱くようになった。英国はオスマン・サウジ戦争を最大限利用し、時として思い切った武力行使も用いながら、湾岸地域におけるサウード家の影響力を組織的に減退させた。ディルイーヤ首長国の崩壊は、湾岸地域において英国が覇権を確立するにあたって有用だったのである。

サウード王家と英国の対立はさらに100年間継続し、その過程でサウード王家の影響力を抑制することを目的とした一連の限定的な協定が締結された。1927年、ジェッダ条約により、英国政府がサウジアラビアの独立を全面的に承認し、同国と英国の関係は恒久的なものとなった。

サウジアラビアは、イスラム教の聖地の管理者であるだけでなく、現在では、イスラム世界とアラブ世界のリーダーでもある。サウジアラビアは、世界のトップ20に入る政治・経済大国なのだ。歴史上初めて、サウジアラビアは、安全で安心出来る豊かな国家になったのである。サウジアラビアの統一は、統一や統合のもたらす成果について大切な教訓を提供する。この成果は、約300年前のディルイーヤの小さな町の賢明な指導者たちの野心的で戦略的な展望に大きく負っているのである。

  • アブデル・アジズ・アルワイシェグ博士は、湾岸協力会議(GCC)の政治問題・交渉担当事務次長補である。ここで表明された見解は個人的なものであり、必ずしもGCCの見解を表したものではない。X: @abuhamad1
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