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敬虔な信者にとってのウイルスのジレンマ

 新型コロナウイルスが猛威をふるうなか、閉められたモスクの扉の前で祈るイスラム教徒。ドバイ、2020年3月21日。 (AFP / Giuseppe Cacase)
新型コロナウイルスが猛威をふるうなか、閉められたモスクの扉の前で祈るイスラム教徒。ドバイ、2020年3月21日。 (AFP / Giuseppe Cacase)
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22 Mar 2020 08:03:48 GMT9
22 Mar 2020 08:03:48 GMT9

新型コロナウイルスのパンデミックが世界中の日常生活を混乱に陥れている。人々は、特に社会的接触を避けるようにと言われている。ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)と呼ばれるコロナ対策措置だ。これらすべてを踏まえても、それでは宗教的な集まりはどうするかという問題は解決されない。人々がしばしば体が触れ合うほどに近距離で集う場だ。

世界中の宗教指導者にとってこの問題が厄介なのは、宗教的な集会や会衆の祈祷、礼拝は、余暇ではなく、神に対する義務と見なされていることだ。礼拝のなかには、聖典で義務付けられているものもある。

サウジアラビアの迅速な対応は称賛に値する。ウムラ(小巡礼)を一時停止とし、メッカの大モスクを徹底的に消毒・清掃し、最近ではメッカの大モスクとマディーナの預言者モスクを除くすべてのモスクを閉鎖した。こうした対応策を少しでも断行しやすくした背景にはイスラム法学の伝統があると考えられる。これに加え、特定の学者に政府の権限が与えられていることも効を奏したのではないかと考えられ、人口の大半をイスラム教徒が占める国でこれに習う国も増えた。アラブ首長国連邦(UAE)のファトワー評議会は3月3日付でファトワーを発令し、政府が感染防止対策として人々の礼拝参加を防ぐためとして、イスラム法学およびイスラム聖典に対する政府の権限に対して説明した。他の国々も同様の措置を取っている。

それにもかかわらず、ラマダンを間近に控え、世界中のイスラム教徒が断食を行う方法についてガイダンスを求めることになるだろう。体力を維持する必要がある人は免除されるのか、イフタールの集まりに対し制限はあるのかなど、明確な指示が必要となる。

キリスト教では、異なった難題を抱えている。特定の法学を当てにできるわけではない。さらに、キリスト教には数多くの宗派があるが、それら全宗派に指示を出す権限を持つ中央集権組織さえ存在しない。キリスト教の崇拝の多くは聖餐式(キリストの最後の晩餐を思い起こしパンとワインを分け合う儀式)を中心としたものだが、この儀式では1つのカップを使い回すことも多い。もう1つ一般的なのが、「平和のしるし」(キリスト教徒の同胞との友愛の表れ)だ。これを表すのに握手や抱擁、キスが使われることが少なくない。伝染病がここまで拡大している時期に、このどちらも問題があるのは明らかだ。

この危機が長く続けば続くほど、宗教指導者はより創造的になる必要がある。礼拝者が集まる場が失われたときに、礼拝の完全性をいかに維持していくかを考えなければいけないからだ。そんななか、それが自分1人でも定期的に祈祷する実践、そして慈善活動やコミュニティ精神の増加につながれば、苦境から良い結果が1つでも生まれたとして評価されることになるだろう。

ピーター・ウェルビー

司教が階層制の組織を形成する教会(英国のイングランド国教会、ローマカトリック教会、正教会など)では、異なる反応を示している。英国では、流行の深刻化に伴い、イングランド国教会が通常の礼拝の中止を発表した(1258年以来初めてのことであるらしい)。葬式や結婚式については、規模を縮小した形なら許可される場合がある。エルサレムでは、キリスト教公認宗派の指導者全員が、それぞれが属する政治的管轄地域全体にわたる信者に対し、危機対策にあたっては民生権限に従うよう呼びかけた。これを行動で示すなら、すなわち礼拝に出るな、ということだ。

だが、多少てこずった国もあった。ギリシャでは、首相がギリシャ正教会に対し科学に従うよう求める、ということもあった。教会が聖餐式は「病気の伝染の原因にはなり得ない」との声明を発表した後、マスコミで大騒動になったことを受けたものだ。これに応じた教会は、毎日の礼拝を中止、信者には日曜礼拝の出席も思いとどまるよう呼びかけている。

危機に臨んで政治の指導者が逃げ出してしまった後、宗教団体が救いの手を差し伸べた、という例は過去には数知れないほどある。ローマ帝国時代、紀元2~3世紀に流行したペストに対するキリスト教徒の対応—自分の命や健康を危険にさらしながら現場に留まり、キリスト教徒か異教徒かに関わらず病人を世話した—により、ローマ帝国全域でキリスト教が急速に広まった。ここでの要点は、自分の信仰は救いを与えてくれると信じる人々にとっては、死への恐れなどありえない、ということだ。これは今でも変わらない。だがそれと同じ様に、その信仰心をもって分かち合う人々には、生者の世話をする義務もある。

この数週間、こうした初期のキリスト教からの教訓がさまざまなキリスト教の指導者や神学者によって引用されてきた。だが、課題もある。新型コロナウイルスは感染力の非常に強いウイルスであり、感染してもしばらくは症状が現れないが、その間にも他人を感染させる可能性がある。したがって、教皇フランシスコがキリスト教の司祭たちにそうするよう勧めたように、医療従事者と一緒に病人や死に瀕している人(コロナによってかどうかに関わらず)を訪問することは、その訪問後、訪問者だけでなく訪問を受けた人全員にリスクをもたらす可能性がある。これがあらゆる教会の司祭に大きなジレンマをもたらしている。司祭にとっては、病人や死に瀕している人の世話が自分の聖職者としての職務の重要な部分だからである。

それでは、宗教団体は生者に対してはどんな世話を施しているのだろうか?エルサレムでは司祭たちが信者に声明を出し、この機会を利用して「個人的な祈り、断食、施しを強化する」よう呼びかけた。英国では、同国の教会の宗派の大半が属するChurches Togetherが、この日曜日を「国民の祈りと行動の日」とするよう呼びかけた。呼びかけられたキリスト教徒は、祈りを行うほか、外出できない人のために日用品の買い物をしたり、フードバンクに寄付したり、隔離中の人と連絡をとったりするよう求められている。

イスラム教の対応は、「利益の獲得よりも危害の回避が優先される」という法学的な原則に基づいているが、これらの対応の多くが、制約があるなかでどんな善行が行えるかに注目してきた。The British Board of Scholars and Imamsでは、1人で行う礼拝および聖典朗読の拡大、「適切な方法による病人の世話」、「慈善活動」の増大を提案している。UAEのファトワーでは、「団体および個人のすべてが、能力が許す限り、お互いに対する救済や支援をできるだけ拡げていくように」と呼びかけている。

この危機が長く続けば続くほど、宗教指導者はより創造的になる必要がある。礼拝者が集まる場が失われたときに、礼拝の完全性をいかに維持していくかを考えなければいけないからだ。そんななか、それが自分1人でも定期的に祈祷・礼拝する実践、そして慈善活動やコミュニティ精神の増加につながれば、苦境から良い結果が1つでも生まれたとして評価されることになるだろう。

  • ピーター・ウェルビーはアラブ世界を専門とする宗教問題およびグローバル時事の顧問である。以前彼は宗教的過激主義に関するシンクタンク「宗教地政学センター」の管理編集者としてアラビア湾地域で公共問題を取り上げていた。ロンドンで活動しており、過去にはエジプトやイエメンに住んでいた。 Twitter: @pdcwelby
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