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放置されたままの尺地が想起させる占領の影響

その場しのぎの家をイスラエル軍が取り壊す前に所持品を持ち出すパレスチナ人。ヨルダン川西岸地区南部のアル=タワーニー村で撮影。(ファイル/AFP)
その場しのぎの家をイスラエル軍が取り壊す前に所持品を持ち出すパレスチナ人。ヨルダン川西岸地区南部のアル=タワーニー村で撮影。(ファイル/AFP)
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12 Oct 2020 08:10:28 GMT9
12 Oct 2020 08:10:28 GMT9

1980年代に私はパレスチナの英字新聞『アル=ファジュル』ウィークリー紙の運営の仕事をしていたのだが、その頃、奇妙な石の山の前を通りかかることがしばしばあった。石の山は東エルサレムの重要な道路に沿った、パレスチナ国際問題研究学会事務所の向かい側の土地にあるのだが、なぜか放置されたままになっていた。

それから何年も経ち、結婚して初めて、あの石の山の話を知った。その土地は、1967年の戦争後まもなくイスラエル占領軍に対するレジスタンス行動を起こした、カマル・ナンマリさんというエンジニアのものだった。子供の頃ワディ・ジョーズ地区に住んでいた妻とその兄弟は、1968年にナンマリさんの家が爆破されたのを見たという。そしてその記憶は今でも心に残っているというのだ。

その石の山が今週、私をはじめ多くの人々の目の前にあらためて蘇った。78歳のナンマリさんが癌との長い闘病生活の末にヨルダンで亡くなったというニュースが伝えられたのだ。ナンマリさんは、国外に住むことを条件に、囚人交換取引の一環として釈放されていた。

ナンマリさんの家が爆破されたとき、私の家族はベツレヘムにある叔母のフダ・アワド宅に滞在中だった。叔母の家の向かいの通りで、隣人がイスラエル軍に捕らえられるという事件が起こった。その隣人はイスラエル軍に対するレジスタンス行為を行ったとの罪を着せられ、その家も、ナンマリさんの家と同じように、爆破された。当時13歳だった自分が泣いている10歳年下の妹グレースを慰めようとしたことを、私は今でも鮮明に覚えている。

罰則としての家屋の取り壊しは、イギリス委任統治時代に行われていた慣習をイスラエルが取り入れたものである。そしてそれを合法化するために、緊急事態法が作られた。取り壊しは、他人を抑止する目的で行われる。だがこういった形の集団懲罰は、これまで常に国際社会から戦争犯罪として非難されてきた。事実、ジュネーヴ諸条約の第4条約によれば、あらゆる集団懲罰が違法なのだ。これは皮肉なことだと言える。ジュネーヴ諸条約は、第二次世界大戦後に、占領国が長期にわたる占領の間に何をしてよいか、何をしてはならないかを規制するために作られたものだからだ。

年寄りは死んでしまったかもしれないが、その子どもたちや孫たちが、目撃者として永遠に残る。

ダウド・クタブ

ナンマリさんの死を受け、ソーシャルメディアは、ナンマリさんのエルサレムの家が破壊されたときのことを今でもはっきりと覚えているという、私の義理の両親と同じようなエルサレム在住パレスチナ人の話で溢れかえった。ある人は、爆発物の使用があまりにも恐ろしいため、イスラエルはパレスチナ人の家を破壊するために爆発物を使うのを遂にやめてしまった、とコメントしていた。アタ・カイマリーさんのように、当時中高生だった人も発言している。当時12歳だったカイマリーさんは、セント・ジョージズ・スクールの他の生徒たちと一緒にナンマリさんへの支援表明に出かけたという。カイマリーさんは、ナンマリさん宅破壊から50年後に、息子にその話を伝えたのだった。

妻とその兄弟は今週、テキストメッセージを交わし合い、隣人だったナンマリさん家で起きたことの記憶をお互いに確かめ合うと同時に、自分の子供たちにも話して聞かせた。義兄のラビブは、家の破壊から数年後に父親を医者に連れていく必要があり、行った先の医者が医学博士のルスタム・ナマリさん(カマルさんの兄)で、義父はかつての隣人に会えたことをたいそう喜んだという話をしてくれた。義父が治ったのも、その再会の喜びのお蔭ではなかったか、と。

イスラエルは1967年6月下旬に東エルサレムを一方的に併合し、1980年にエルサレム基本法案を可決した。

それ以来、イスラエルは、占領下にあるパレスチナの土地をさらに多く併合することを視野に入れてきた。そうした一方的な行動を国際社会はこれまで一度も認めたことがないというのに。

イスラエル人たちは、自分たちの犯罪行為が自分たちに平和をもたらすと思ったのかもしれない。そして人々はすぐに忘れてしまうだろう、と。だが、人々は忘れてはいないし、これからも忘れることはないだろう。かつてカマルさんの家があった土地をナンマリさん一家が使用してはいけないとイスラエルの法律が禁止しているかどうかは知らないが、カマルさんが亡くなってしまった今、ナンマリさん一家に対して今でも続いているこの集団懲罰という犯罪をイスラエルが正当化しようと思っても、難しいのではないかと思われる。

土地の現状がどんなものであれ、集団懲罰という一つの行為だけをとっても、未解決の問題がまだあることをイスラエル人に思い起こさせるし、そしてその思いはこれからもイスラエル人の脳裏に絶えず付きまとうことになるだろう。国連安保理決議242の前文で、戦争による領土の取得は認められないと言及されているにも関わらず、イスラエルはそれに違反し続けているからである。

イスラエルの初代首相は、1950年代に、年寄りは死に、若者は忘れる、と発言したと言われている。首相がこの発言によって説明しようと思ったのは、パレスチナ難民はパレスチナに戻る権利をいずれ忘れてしまうに違いない、ということだった。しかし、これにはおそらく、他の多くの事例を正当化する意味もあったのではないだろうか。そして、家の取り壊しという戦争犯罪も、その事例の1つなのである。

年寄りは死んでしまったかもしれないが、その子どもたちや孫たちが、目撃者として永遠に残る。ナンマリさんの家をはじめとする数々の物語は、世代を超えて語り継がれていくだろう。占領、そしてその長期的な影響について語り継ぐことには、期限などないからだ。

  • ダウド・クタブは、受賞歴を持つパレスチナ人ジャーナリストであり、プリンストン大学元ジャーナリズム教授である。ツイッター: @daoudkuttab
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