
パレスチナ人の友人がFacebookにコメントを投稿した。ウクライナからロシア軍の進攻に伴い、人々が家から逃げ出すというニュースに対する反応だ。簡単に言うとこうだ。「彼らはスーツケースひとつで慌てて出て行った。事態が落ち着いて、家に帰れるのは数日先だと考えている。どこかで聞いたことがないか?」
現在アメリカに住むこのミュージシャンは、祖父母から、あるいは両親から、同じような話を聞いたことだろう。パレスチナ人の世代は、不安気な大人として、あるいは当惑した子供として家を出たことを覚えている。今回発生した衝突に関して、世界的な軍事大国と国境を接するヨーロッパの若い国で、領土やその他の紛争をめぐって敵対関係がエスカレートする可能性があるとは言われていた。しかし、従来の意味での戦争が本当に起こりうると考える人はほとんどいなかった。ヨーロッパではありえない、2022年にはありえない、と彼らは考えていた。しかし、戦争は一夜にして勃発した。全軍が迫り、もはや眠ることもできない。
最初に故郷を追われてから70年以上たった今でも、多くのパレスチナ人は家の鍵を持ち歩いている。この最も貴重な財産は、家の安全を約束し続けるお守りのようなものだ。持ち主は難民という名の強制的なホームレス生活を送りながら、地球上を何度も移動しているのである。彼らの多くが、近隣の村々で発生した小競り合いは、数日で解決すると思っていたが、そうはならなかった。見たこともない故郷への帰属意識とともに、彼らはこの記録を子孫に伝えてきた。権利に関する法的論争と、時間の経過とともにさらなる危機を生むかのような人道的危機の間で、パレスチナの人々は自分たちの苦境がまだ十分に解決されていないと感じている。しかし、彼らは他の人々の苦しみを見過ごすことはない。
恐怖におののき故郷を離れながらも、両手を広げて迎えられたウクライナの人々への圧倒的な支援と、同じように混沌とした状況の中で避難を強いられたパレスチナ人たちの苦難の連続との非対称性は、ミュージシャンである私の友人も感じているだろう。彼のコメントの連投は、彼の心が比較から逃れられないことを示している。一方で彼は、その憤慨と傷の感情を超える共感を示している。
苦しみは、どのような状況にあっても、私たちが互いに認め合うことのできる最も基本的なもののひとつである。
タラ・ジャルジュル
私はこの友人のコメントを、自分のバイアスを通して、肯定的にとらえている可能性はある。おそらく私は、敬愛する音楽家たちに、人間がその体験をどのように表現するかの、普遍的な側面を見ているのだろう。しかし、もし私のバイアスが、命を救いたいという直感を優先するという、人間が持っている生来の傾向を好むとしたら、それはそれで構わないだろう。
シリア人が難民となり、数十万人、後には数百万人が国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統計的な懸念材料となった。そのとき、私は特に、第二次世界大戦前後のヨーロッパで極度の残虐行為を受けたユダヤ人の子孫が、ヨーロッパ各地でシリア人に家を開放しているという記事を読み、衝撃を覚えた。
ここで重要なのは、人間の本質的なポジティブな考え方、『共感』を強調することである。世界各地で戦争のニュースや映像が日常化するなか、この記事の筆者は死のニュースのなかに生を見出そうとしていた。
適者生存は、攻撃性を正当化する自然法則と考えられており、私たちはよく耳にする。しかし、社会科学は違うことを教えてくれる。人類学者は近年、人間は脆弱な存在であると主張している。人間の子供はジャングルの獣の子供より、ずっと長い間無力である。従って、人間の赤ん坊が生き残るためには、大人から多くの世話を、しかも長い間受ける必要があるのだ。人間の大人は狩りをしながら赤ちゃんの世話をすることはできないので、お互いに助け合う必要がある。また、大人は集団で行動する必要があり、集団が繁栄するためには協力し合う必要がある。つまり、人間の物語は、生存のための競争ではなく、協力が主体なのだ。このことは、覚えておくと便利な概念だ。それがたとえ、わずか1カ月余りの間に何百万人もの人々がホームレスとなったときにも、だ。
苦しみは、どのような状況にあっても、私たちが互いに認め合うことのできる最も基本的なもののひとつである。アラブ世界の多くの国々、特に地中海の東側に位置する国々の人々は、その不幸な世界的な地政学的理由のために、この悲しい現実をあまりにもよく理解している。彼らにとって、ウクライナ難民が、自分たちが最も困難なときに受けたよりも良い待遇を受けるのを見るのは、容易なことではないだろう。しかし、今ニュースを見て彼らが感じているのは、それだけではない。