
レバノンでの抗議デモは、スンニ派の元教育大臣ハッサン・ディアブが国の新しい首相に指名された後も続いた。
レバノンのミシェル・アウン大統領によるディアブ首相の指名は抗議者たちとスンニ派コミュニティの反論を招いた。その多くは、政府の一員ではなく独立した首相への要求を主張し続けている。
ベイルートアメリカン大学(AUB)の地域外部プログラムの副学長および電気工学の教授として働いたディアブは、2011年にナジーブ・ミーカーティー政権の教育大臣に就任。ミーカーティー政権はヒズボラとアウンニスト党(自由愛国運動)がサアド・ハリーリー政権の失脚を組織した後、彼ら自身により結成された。
ディアブは134ページにわたる自らの略歴において「国内外の機関が私の業績を教育分野における顕著な貢献として認めた」と自慢し、履歴書には次のように書いている。「私はAUBの歴史上、大臣になった唯一のAUB教授および管理者でした」
おそらくディアブは、故ラフィク・ハリーリー首相と一緒に暗殺された作家でジャーナリストのガッサン・トゥイーニやバッセル・フレイハン、そしてガッサン・サラメ、ジハード・アズールといった、大臣でAUB教授であった人物の存在を知らなかったのだろう。
ハリーリーが国家統一のテクノクラート政府を率いることを拒否した後、アウンは迅速にディアブを指名した。それは、ヒズボラと大統領の義理の息子、ゲブラン・バシルの間での仲介案の結果だった。スンニ派の代議員で指名したのはわずか6名で、いずれもヒズボラとシリア政権の同盟と近い。しかし、スンニ派のハリーリー支持者たちは街頭に出て、指名に対して激しく抗議した。
ハリーリー自身が抗議者たちに沈静するように呼びかけたにもかかわらず、デモは険悪になり、また警備隊が暴徒の標的となるなど一部暴力的にもなった。多くの抗議者が厳重に警備された新首相の住居前に現れ、独立した首相を要求した。
さまざまな政党との議会の協議の中で、ディアブは6〜8週間をかけて20名の独立した専門家の政府を発足すると述べた。 しかし多くの人々は、アウンとヒズボラに支援されているディアブがその任務を遂行することを全く信用していない。
レバノン各地のさまざまな都市で進行中の抗議行動と、アウン、バシル、そしてヒズボラの不満の中、ディアブによる政府の発足はほぼ不可能だろう。
ランダ・タキエディン
ハリーリーの党、未来運動は、彼の政府には参加しないと表明し、サミール・ジャアジャア率いるレバノン軍団の党も同様の発言をしている。ワリド・ジュンブラット率いる社会党は、代わりにレバノンの元国連大使ナワフ・サラームを指名した。
それは将来の対立の種を蒔いた。サラームは、非常に尊敬されている独立した人物で、著名なスンニ派の政治家一族に属する(彼の亡き叔父、サエブ、および従兄弟のタンマーム・サラームは、両者とも首相を務めた)。 ヒズボラは、ナワフが米国に支持されていると主張している。この主張は中傷以外の何物でもないとして、多くの人々が断固として拒否している。
レバノン各地のさまざまな都市で進行中の抗議行動と、アウン、バシル、そしてヒズボラの不満の中、ディアブによる政府の発足はほぼ不可能だろう。
たとえ信頼に値し機能する政府が発足したとしても、彼は人々の要求も、またパリでフランスの議長の下、レバノンを支援すると公約した主要な外国大国の要求も満たすことはできないだろう。
米国の政治担当国務次官、デビッド・ヘイルは先週ベイルートを訪れ、同じメッセージを強調した。 しかし問題は、2011年以来基本的なサービスさえも提供できなかったこのトリオによって調整された政府を一体、信頼できるのかということだ。
10年近くの失敗が続き、レバノンは崩壊の危機に瀕している。レバノンは国際的な支援を必要としているが、ディアブの任命では国の統一もままならず、それにはつながらないだろう。
ランダ・タキエディンはパリを拠点とするレバノン人ジャーナリストで、30年にわたりアル・ハヤトのフランス支局長を務めた。 またフランスの中東との関係を4人の大統領の任期を通じて扱ってきた。