Since 1975
日本語で読むアラビアのニュース
  • facebook
  • twitter
  • Home
  • サウジアラビア
  • サウジアラビアのバンダル王子、パレスチナ問題で事実関係を明確にする

サウジアラビアのバンダル王子、パレスチナ問題で事実関係を明確にする

1993年9月13日、ワシントンDCのホワイトハウスで、PLOのヤセル・アラファト議長(右)とイスラエルのイツハク・ラビン首相(左)が初めて握手を交わす中、2人の間に立つビル・クリントン大統領(中央)。(写真:J. DAVID AKE/AFP通信)
1993年9月13日、ワシントンDCのホワイトハウスで、PLOのヤセル・アラファト議長(右)とイスラエルのイツハク・ラビン首相(左)が初めて握手を交わす中、2人の間に立つビル・クリントン大統領(中央)。(写真:J. DAVID AKE/AFP通信)
パレスチナ暫定自治協定の調印に先立ち、ホワイトハウスで中東の指導者たちと歩くビル・クリントン米大統領(中央)。左からヨルダンのフセイン国王、イスラエルのイツハク・ラビン首相、クリントン大統領、PLOのヤセル・アラファト議長、エジプトのホスニ・ムバラク大統領。(写真/AFP通信)
パレスチナ暫定自治協定の調印に先立ち、ホワイトハウスで中東の指導者たちと歩くビル・クリントン米大統領(中央)。左からヨルダンのフセイン国王、イスラエルのイツハク・ラビン首相、クリントン大統領、PLOのヤセル・アラファト議長、エジプトのホスニ・ムバラク大統領。(写真/AFP通信)
2020年6月6日、イスラエル占領下のヨルダン川西岸地区のカフル・カドゥム(Kfar Qaddum)村で、ユダヤ国家による領土の一部併合計画に反対するデモで国旗を振るパレスチナ人の抗議者。(写真:JAAFAR ASHTIYEH/AFP通信)
2020年6月6日、イスラエル占領下のヨルダン川西岸地区のカフル・カドゥム(Kfar Qaddum)村で、ユダヤ国家による領土の一部併合計画に反対するデモで国旗を振るパレスチナ人の抗議者。(写真:JAAFAR ASHTIYEH/AFP通信)
2012年7月4日、ガザ市で、ハマスの精神的指導者である故シェイク・アフマド・ヤシン氏(左)とパレスチナの指導者である故ヤセル・アラファト氏(右)を描いた壁画の前を歩くパレスチナ人女性。(写真:MAHMUD HAMS/AFP通信)
2012年7月4日、ガザ市で、ハマスの精神的指導者である故シェイク・アフマド・ヤシン氏(左)とパレスチナの指導者である故ヤセル・アラファト氏(右)を描いた壁画の前を歩くパレスチナ人女性。(写真:MAHMUD HAMS/AFP通信)
Short Url:
11 Oct 2020 12:10:15 GMT9
11 Oct 2020 12:10:15 GMT9
  • アル・アラビーヤのインタビューで、パレスチナ指導者の失敗とサウジアラビアの惜しみない支援との対比が明らかになった
  • パレスチナ指導部が8月の米国・UAE・イスラエル三国間宣言を非難したことに続き、重大な事実が暴露された

アラブニュース

リヤド:サウジアラビアのバンダル・ビン・スルタン・アル・サウード(Bandar bin Sultan Al-Saud)王子は、世界的な外交の重要人物として、1980年代初頭からの数十年間を形作った多くの人物や問題について内部情報を握っていた。バンダル王子はパレスチナを始めとする中東に住む数百万の人々の運命を決定付ける歴史を目撃してきた。しかし、世界は今月になって初めて、バンダル王子が実際の現場で目撃した決定や行動の一部を垣間見ることができた。

当然のことながら、サウジアラビア総合情報庁や国家安全保障会議の責任者も務めた元駐米サウジアラビア大使に対するアル・アラビーヤのインタビューは、最近の記憶の中では例がないほど政治的な話題を席巻している。バンダル王子の回顧では、パレスチナの大義に対するサウジアラビアの不動の立場と、UAEとイスラエルの和平協定をめぐる湾岸諸国への批判を含むパレスチナ指導部による自業自得の損害や「失敗」との対比が際立っている。

明るみに出てきたのは、何十年にもわたってパレスチナの指導者たちが犯してきた数々の失策だけでなく、彼らの決断力のなさであり、その積み重なった影響は、パレスチナの人々に大きな損害を与え、国家としての大義を後退させてきた。しかし、ひねくれた考えではあるが、現在のパレスチナの指導部を評価する理由があるとすれば、彼らが、8月の米国・UAE・イスラエルの三国間宣言を強く非難したことで、バンダル王子が重大な事実の暴露を行う理由になったということだ。

バンダル王子は、パレスチナの指導部による発言に対する最初の反応は怒りだったが、その後は悲しみと心の痛みを感じたと認めた。王子は「1978年から2015年までパレスチナの大義に関連して目撃した出来事を思い出しました」と話し、サウジアラビアの指導者と国家が1939年からパレスチナに与えた多面的(道徳的、物質的、軍事的、外交的、経済的)な支援について、興味深い一人称視点で全体像を語った。

バンダル王子は、1948年の戦争後、アラブ連盟加盟国が苦境に陥ったパレスチナの人々に対する支援を決めた時のサウジアラビアの役割を振り返った。「サウジアラビア軍はエジプトの友軍と共にパレスチナの地に入り、大きな成果を上げました。3,000人のサウジアラビア兵がエジプト側の前線とパレスチナにいました。この戦争で、150人のサウジアラビア人が殉教しました。当時、サウジアラビア軍は設立されたばかりで能力に限りがありましたが、それ以前に作られた軍隊も同じように能力に限りがありました」

現在のパレスチナ指導部の発言で勇気づけられる人はほとんどいないとしても、アル・アラビーヤのインタビューに対する圧倒的な反応は次のようなものであろう。彼らが歴史を巻き戻し、別の方法を試すことができれば良いのだが、と。1986年の出来事に関するバンダル王子の説明について考えてほしい。1986にはファハド国王が、パレスチナの大義を支援するために何かをするようレーガン米大統領に提案することをバンダル王子に求めた。

「私はレーガン大統領に会いに行きました。私はレーガン大統領に、パレスチナ人が1973年に拒否した国連決議242に同意したことを伝えました……。私は、パレスチナ人が国連決議242を承認し…… テロリズムを糾弾し、この地域の国家が平和に暮らす権利を認めるならば、レーガン大統領はPLOを認め、PLOとの協議を行う準備ができているという内容の書簡を(ジョージ)シュルツ国務長官の所に持って行きました」

「私はその場を離れ、ファハド国王に電話をして、その申し出について話しました。『本当か?』と国王は尋ねました。私は署名された書簡があると伝えました。国王は私に計画を進めるように言い、チュニジアに行ってアブ・アマル(ヤセル・アラファト)氏に直接書簡を届けるように言いました。私はチュニジアに行ってアラファト氏に会いました。アラファト氏はいつものように立ち上がって『パレスチナは自由だ!』と言って、私にキスをして抱きついて踊り始めました」

「アラファト氏がいつも人にキスをするのが好きだったことは、誰にでもよく知られています。彼が(ヨルダンの)フセイン国王に会いに行って共同宣言などを行うことができるよう、彼に発表日について尋ねました。彼は『それはできません』と答えました。『どうしてできないのですか? これはあなたが求めていたもので、私たちはあなたのために手に入れたのです』と私は言いました。アラファト氏は『私はアラブの倫理規定に従っているのです』と答えました。私は『何があってもこの申し出を受け、機会を無駄にしないでください』と言いました」

「アラファト氏はその後、フセイン国王に会いに行く前に、ファハド国王にお礼を言うためにサウジアラビアに行く必要があると私に言いました……。彼が飛行機を要求した時、私が乗ってきた飛行機を使ってジェッダに行くことができると提案しました。彼はその飛行機に乗りましたが、その後1か月間彼に会うことはありませんでした。彼は我々と全く関係のない人と一緒に南イエメンと北朝鮮に行きました。また、サウジアラビアに到着する前にアフリカやアジアの国々を訪問しました。これだけの時間が経過して、アメリカ人は『もう興味がない』と言いました。多くのことが起こり、米国の関心は移ってしまったのです」

バンダル王子は、1978年のキャンプ・デービッド合意に対するアラブ諸国の拒絶についても同様に率直な意見を述べている。「パレスチナが自治権条項を拒否し、この平和条約をアラブ国家による裏切りとみなしたことを理由に、アラブ国家が世界の母、エジプトを排斥したことは、パレスチナの悲劇を深める大きな要因となる過ちになりました」と王子は語った。

1993年と1995年のオスロ合意の後、バンダル王子はキャンプ・デービッド合意についてアラファト氏の見解を求めたという。アラファト氏とのやり取りを王子は次のように語った。「アラファト氏は『バンダル王子、キャンプ・デービッドの自治権条項はオスロ合意の10倍良いものです』と言い、私が『議長、ではなぜ同意しなかったのですか?』と尋ねると、アラファト氏は『私はそうしたかったが、(シリアの)ハフェズ・アル・アサド大統領が、私を殺してパレスチナ人の間に楔を打ち込み、彼らを私に敵対させると脅してきたのです』と答えました。私は考えました。『彼は何百万人ものパレスチナ人を救うために自分の命を捧げて1人の殉教者になることができたのに』と。しかしそれも神の意思です」

2007年2月に話を進める。2007年2月には、アブドラ国王が、パレスチナのマフムード・アッバス大統領とハマスの指導者ハリード・メシャール氏をメッカに招き、致命的なファタハ・ハマスの紛争を終わらせ、統一されたパレスチナの指導部を形成するための重大な分かれ目となる協議を行った。

「(アブドラ国王は)彼らが書いたものを確認し、皆の前でそれを読みました。そして、神の前で、皆の前で、この取引に同意することを誓うように求めました。その後、国王は彼らに握手を求め、『神は私たちの証人であり、私たちは神の聖地にいる。サウード(ビン・ファイサル王子)よ、彼らをカーバに連れて行き、神とパレスチナの人々の前で彼らに約束を誓わせよ』と言い、彼らを祝福しました。彼らがサウジアラビアを出発してからわずか数日後、私たちは、彼らがすでに約束を反故にし、再びお互いに陰謀を企て始めたという知らせを受けました」

もちろん、バンダル王子が明らかにしたように、彼らの指導者たちの愚行は、パレスチナの人々が故郷に戻る権利を失うことを意味するものではなく、イスラエルに対しアラブの土地から撤退するよう要求する権利を失うことを意味するものでもない。王子はまた、平和はパレスチナ人の権利を犠牲にして得られるものではないと次のように強く訴えた。「パレスチナ人の血の一滴は、どんな地球の宝物よりも貴重です」

王子はそう主張した上で、パレスチナの指導部が助言と支援を求めると、サウジアラビアは見返りを期待せずに求めに応じるが、彼らはいつも支援を受けるだけで、助言は無視すると断言した。「そして彼らは失敗してまた我々の所に戻ってきます。我々は彼らの失敗に関係なく、また彼らを支援することになります」と王子は述べた。このような関係性の特徴により、パレスチナの指導者たちは「サウジアラビアの指導者やサウジアラビア国家、湾岸諸国の指導者や国家に対して、自らが犯した過ちには何の代償も払わなくても良い」と確信したのではないかと、バンダル王子は感じていた。

バンダル王子は、「状況と時代が変わった」と指摘し、「パレスチナの人々が、これまで議論されてこなかった、あるいは隠されたままになっている真実を知ることは、パレスチナの人々にとって公平なことだと思います」と付け加えた。

特に人気
オススメ

return to top