


ラマ・アルハマウィ
リヤド:サウジアラビアの歴史について振り返る時、多くの人はガシバ地区の重要性や、この地区が約300年にわたって統治者であるアル・サウード家の拠点であった事実を見過ごしがちだ。
ユネスコ世界遺産であるディルイーヤのアトゥライフが1766年に王宮所在地として確立される以前のことである。
ディルイーヤ・ゲート開発局の歴史研究・調査担当副部長であるバドラン・アル・ホナイヘン博士はアラブニュースに対し次のように語る。「この地区は最古の場所の一つであり、最初のサウジ国家成立に続く600年前のサウード家による権力掌握を目撃しています」
ガシバは、マニ・アール・ムライディ王子の時代からイマーム・ムハンマド・ビン・サウードの治世の初期まで政府所在地だった。
ディルイーヤには、ガシバ、アル・タラフィーヤ、アトゥライフ、アル・クサイレン、アル・トライフの5地区があった。
ガシバはディルイーヤ北東部、ワディ・ハニファに囲まれた台地の上にある。
アル・ホナイヘン博士は語る。「ガシバはディルイーヤの中核、そして政府の拠点になり、この地域を通過する巡礼キャラバンや貿易キャラバンの保護において重要な役割を果たしました」
ガシバは最初の政府所在地だった。ディルイーヤが第一次サウード王国を建国すると、ガシバは教育、農業、全般的により良い生活の拠点となった。
「ディルイーヤが第一次サウード王国の首都になると、移民の数が増え、それによって社会構成が大きく変わり、権力の中枢をガシバからアル・タラフィーヤ、そして短期間でアトゥライフ地区に移す必要に迫られました」
18世紀、ガシバや隣接地域に新たな移民が押し寄せたことで、ガシバからアル・タラフィーヤ、最終的にはアトゥライフへの移動が行われた。
「人口過剰の結果、国家はディルイーヤで最も素晴らしい地区の一つであるアル・タラフィーヤに移動しました」
ガシバからアル・タラフィーヤへの移動は、ディルイーヤの繁栄ぶりを示す王国史上の重要な出来事である。
「ガシバが人口過密になった後、多くの居住区が新たに出現しました。アル・タラフィーヤもその一つです。この地区はイマーム・ムハンマド・ビン・サウードの統治の偉大さを示す証拠を有しています」
ディルイーヤが繁栄し人口が増えると、ガシバ地区は人で溢れた。イマーム・ムハンマド・ビン・サウードはガシバから、その南、サムハンの一部でありワディ・ハニファの東のほとりに位置するアル・タラフィーヤへと移った。
「第一次サウード王国の初期、王家はガシバからアル・タラフィーヤに移りました。イマーム・ムハンマド・ビン・サウードは治世の終わりまでアル・タラフィーヤに住みました。40年近くにわたる改革と教育・社会・文化・社会の成功の時代でした」
「ガシバは戦略的に有利な位置にあったので、最も優れた要塞地区としてディルイーヤの防衛に貢献しました」
「ガシバにはいくつか逸話があります。第一次サウード王国の終わり頃、不屈とディルイーヤ防衛の時期、イマーム・サウードの孫であるサウード・ビン・アブドゥラー・ビン・サウード・ビン・アブドルアジーズ王子の宮殿の防衛の時期のことです。王子は歴史的な宮殿を持っており、ガシバにいた多くのバヌ・ハニファ族と共に武勇と不屈の精神で有名でした」
ガシバについての逸話の中で最も有名なもののいくつかは扉にまつわるものだ。
「ナジュド様式の宮殿はディルイーヤ式の扉を有していることで知られています。この扉はタマリスクの木で作られており、多くの建築的細部があります。しかし、サウード・ビン・アブドゥラー王子の宮殿の扉は鉄でできていたのです。そのことに地元住民も、ガシバを中心にディルイーヤに侵攻してきた軍も驚きました」
アル・ホナイヘン博士によると、イマーム・ムハンマド・ビン・サウードの孫であるイマーム・サウード・ビン・アブドルアジーズ(大王)はサウード王国のガシバとのつながりを強固することを望んだ。
「彼(イマーム・サウード・ビン・アブドルアジーズ)はガシバに大きな宮殿を築き、アトゥライフを離れて場所を変えたくなった時のための別荘にしました。彼はこの宮殿に鉄製の門を作りました。地域で最高の砦の一つでした」
史料に「ガシバ」という名前が初めて記載されたのは、ドゥロウから来たマニ・アール・ムライディ王子率いるマラダ氏族が1446年にディルイーヤに入植した後のことだ。
「『ガシバ』という名前が付けられた理由は、おそらくその名前自体の意味にあると思われます。力あるいは強制によって奪われる物の性質という意味があり、この地区が難攻不落で敵を寄せ付けない様を示すものとされたのでしょう」
「イマーム・アブドゥラー・ビン・サウードの息子であるサアド王子は地区の住民と共にこの地区に立て籠もり、英雄的に防衛しました。イブラヒム・パシャは、猛攻をしかけてサアド王子を克服させるまでは突入できませんでした」
侵略軍の司令官イブラヒム・パシャはその後、負傷者をガシバの宮殿に収容した。砦があり、収容能力が高く、部屋がたくさんあったからだ。
現在、ガシバには構造の遺構だけが残っている。それが物語るのは、壁の強度と、王国の歴史においてその壁が果たした役割である。