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ライセンシングのパイオニアであるフランス人デザイナー、ピエール・カルダンが98歳で死去

2016年4月26日に撮影されたこのファイルの画像では、フランスのファッションデザイナー、ピエール・カルダンが、パリのピエール・カルダン店舗でポーズをとっている。フランス人デザイナーのピエール・カルダンは、先見の明ある作品でファッション界を揺るがし、また自分の名前をお金を紡ぐグローバルブランドに変えたが、2020年12月29日、98歳で亡くなった。(AFP)
2016年4月26日に撮影されたこのファイルの画像では、フランスのファッションデザイナー、ピエール・カルダンが、パリのピエール・カルダン店舗でポーズをとっている。フランス人デザイナーのピエール・カルダンは、先見の明ある作品でファッション界を揺るがし、また自分の名前をお金を紡ぐグローバルブランドに変えたが、2020年12月29日、98歳で亡くなった。(AFP)
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30 Dec 2020 01:12:45 GMT9
30 Dec 2020 01:12:45 GMT9

パリ: フランスのファッションデザイナー、ピエール・カルダンは、非常に独創的な芸術的感性を持ち、それが堅固なビジネスセンスによって調節されたと言える。彼は、数十万円の値札が付いたオートクチュールのガウンよりも、ストッキングのペアからより多くの収入を得たことを問題なく認めた。

火曜日に98歳で亡くなったカルダンは、究極の起業家デザイナーだった。彼は独占的オートクチュールショーが消費者の欲求を刺激することの重要性を理解し、またライセンシングの先駆者であった。彼の名前は、アクセサリーから家庭用品まで、何百もの製品を飾った。

「数字は嘘をつかない」とカルダンは1970年のフランスのテレビインタビューで宣言した。「私は、百万フランのドレスの販売よりも、ネクタイの販売からより多くの収入を得ています。直感的にはわかりにくいかもしれませんが、口座がそれを証明しています。結局、数字がすべてなのです。」

フランス美術アカデミーがカルダンの死をツイートで発表した。彼は1992年以来、同アカデミーの著名なメンバーの1人だった。アカデミーは、デザイナーの死因や、どこで亡くなったのかには言及しなかった。

カルダンのメゾンでデビューしたデザイナーのジャン=ポール・ゴルチエは、ツイッターで師匠に敬意を表し、「私のためにファッション界の扉を開き、夢を実現させてくれたカルダン氏に感謝する」とツイートした。

前衛的な宇宙時代のスタイルで知られるパリ拠点の2人のデザイナー、同じくフランス人のアンドレ・クレージュとスペインのパコ・ラバンヌとともに、カルダンは1950年代初頭からファッションの世界に革命をもたらした。

他のパリのブランドが女性の体形を引き立たせることに懸命になっていた時代、カルダンのデザインは着用者を一種の栄光のハンガーとして表現し、服のシャープな形やグラフィックパターンに光を当てた。実用主義者のためや、壁の花のために作成されたわけではなく、彼の衣服はすべて、大きく堂々と入場するためにデザインされた。時には文字通りに。

蛍光スパンデックスのガウンとボディスーツには、腰、肘、手首、膝の部分でそこから離れるプラスチック製のフープが取り付けられた。バブルドレスとケープは、着用者を特大の球形の布地で包み、トーク帽は空飛ぶ円盤のような形をしていた。バケットハットはモデルの頭全体を覆い、目の部分には透明の風防が取り付けられた。

「ファッションはそれ以前や以後の視点で見ると常にばかげて見える。しかし、その瞬間においては、まったく素晴らしく見えるのだ」とカルダンは1970年のインタビューで語った。

彼のブランドのウェブサイトにある引用が、彼の哲学を要約している。「私が好む服は、まだ存在しない生活のために私が作るものであり、それは明日の世界のものだ。」

カルダンの名前は、腕時計からベッドシーツまで、何千もの製品を飾った。ブランドの全盛期には、派手な筆記体の署名の付いた商品が、世界中の約100,000の店舗で販売されていた。

しかしその数は後年、劇的に減少した。カルダンの製品は安価に作られていると次第に見なされるようになり、また60年代から数十年経てもほとんど変わらない彼のファッションデザインが、時代遅れと感じられたのだ。

賢明なビジネスマンであるカルダンは、自らの途方もない富を利用し、彼自身頻繁に訪れたベルエポックのレストランMaxim’sを含む、パリの一流物件を数々と手に入れた。パリの大統領府エリゼ宮殿の隣にある彼の旗艦店は、目を引くデザインを披露し続けている。

カルダンは1922年7月7日、イタリアのベニス近くの小さな町で、質素な労働者階級の家庭に生まれた。子供の頃、家族はフランス中部のサンテティエンヌに引っ越した。そこでカルダンは学校に通い、14歳で仕立屋の見習いとなった。

カルダンは後に「自力で成功した人」というステータスを受け入れた。1970年のテレビインタビューで、何事も一人でやると、「人生をはるかに現実的に見ることができるようになり、自ら決断を下し、勇気も出るようになる」と述べた。

「すでに知っている道を歩くよりも、一人で暗い森に入る方がはるかに難しい」と彼は語った。

パリに移住した後、1945年からメゾン、パキンで助手として働き、また映画監督ジャン・コクトーなどのために衣装のデザインも手伝った。彼は同監督の1946年のヒット作「美女と野獣」の衣装の作成に携わった。

エルザ・スキャパレッリとクリスチャン・ディオールと短期間仕事をした後、カルダンはパリの豪華な第1地区で自らのメゾンをオープンし、まず衣装とマスクから始めた。

カルダンは1953年に最初の本物のコレクションを発表した。1954年の有名な「バブル」ドレスの発表ですぐに成功が到来し、彼のブランドがファッション界の地図に刻まれることとなった。

カルダンは、1959年にパリのプランタン・デパートで初めてのプレタポルテショーを行った。これは大胆な取り組みであり、彼はオートクチュール組合から一時的に追放されてしまった。

フランスファッション界の統治機関であるこの組合とカルダンの関係は不安定で、後にカルダンは自らの意志で組合を去り、自分の好む方法でショーを行うようになった。

映画「突然炎のごとく」で知られる擦れ声を持つフランスのブロンド女優ジャンヌ・モローとの有名な関係も、カルダンのブランドの知名度を高めるのに役立った。両者によって「真の愛」と表現されたこの関係は、結婚には至らなかったものの、5年ほど続いた。

カルダンにとって、オートクチュールコレクションを制作するための天文学的な費用は投資であった。

オートクチュール商品の莫大な価格ですら、オーダーメード衣服の製作コストをカバーできなかったが、オートクチュールショーによって生み出されたメディアの報道は、帽子、ベルト、下着などの手頃な価格のアイテムの販売に役立ったのだ。

カルダンの名声と財産が上昇するにつれ、彼の不動産ポートフォリオも上昇した。彼は長い間、エリゼ宮殿の真向かいにある広大なアパルトマンで、妹と厳かでほとんど禁欲的な生活を送っていた。しかし周辺のトップクラスの不動産を次々と購入したため、ファッション関係者は、カルダンはクーデターを起こすことができると冗談を言った。

カルダンは、婦人服と紳士服のブティックに加え、子供向けのショップ、家具店、さらにパリ中心部に広大なホールであるエスパス・カルダンをオープンした。ここで彼は後にファッションショーを行い、また演劇やバレエの上演、その他の文化イベントも催した。

カルダンは、衣服以外にも、香水、化粧品、磁器、チョコレート、南フランスのリゾート、さらにはベルベットの壁に囲まれるレストランのMaxim’sにまでビジネスを広げた。このレストランで彼は、よく昼食時に見かけられた。

1970年代にはカルダン・ブランドの大規模な拡張が行われ、世界中で店舗数は100,000を超え、さらにほぼ同数の従業員がカルダンのブランド商品を生産していた。

カルダンは、製造のハブとしても、消費者の潜在性からしても、アジアの重要性を認識した先駆者であった。彼はすでに1960年代初頭から日本に乗り込み、また1979年には中国でファッションショーを催した最初の西洋人デザイナーとなった。

1986年、彼はソビエト当局と契約を結び、この共産主義国家にショールームを開設して、彼のブランドの下で地元で作られた服を販売した。

晩年カルダンは、法定推定相続人がいないまま、自ら築いた大帝国の大部分を解体し、2009年には中国で持つ数十のライセンスを2つの地元企業に売却した。

2年後、その時点で推定500〜600ライセンスを持つ彼の会社全体を、14億ドルで売却してもよい、とウォールストリートジャーナルに語った。

AP通信

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