
フッサム・アル・マイマン
リヤド: 日本の伝説的人物であるアントニオ猪木氏(本名モハメッド・フセイン・イノキ)が土曜日に79歳で死去した。
猪木氏はプロレスラーであり、格闘家であり、政治家であり、プロレスと総合格闘技のプロモーターであった。
1943年に日本の横浜で生まれた猪木氏は、家族と共に移住したブラジルで少年時代の大半を過ごした。
彼はこの地でプロレスへの情熱を育んだ。
日本史上最も有名なレスラーの一人である力道山にスカウトされた猪木氏は、日本に帰国して日本プロレスに入団した。
猪木氏は日本で広く人気を得て、その多才さやリング上でのカリスマ的な振る舞いによって尊敬を集めた。
彼の貢献はリングの外にも広がり、1972年には新日本プロレス(NJPW)を旗揚げした。
それから20年間で、猪木氏はタイガーマスク、ダイナマイト・キッド、ボブ・バックランド、ベイダーなどの才能あるレスラーを起用して、NJPWをアジアで最も成功したプロレス団体に育て上げた。
興行を取り仕切るとともに、猪木氏自身も王座を持つトップスターの一人として、リングに上がってスタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シン、ハルク・ホーガンらと対戦した。
1976年には、東京でモハメド・アリ選手を相手にレスラー対ボクサーの試合を行って世界的名声を得た。
この対戦は、現在の総合格闘技の先駆けとして評価され、またこの世代で最も多くの人が見た試合の一つとなった。
東京の日本武道館を満員にした1万4000人以上の観衆が目撃しただけでなく、クローズドサーキットで世界中に放送された。
ニューヨークのシェイ・スタジアムでは、プロレスとミックスルールの前座試合に続いてメインイベントの猪木対アリ戦が大画面で放送され、3万2897人の観衆を集めた。
リングの外の猪木氏は、スポーツで平和と外交を築いた。
1990年には、イラクで拘束されていた日本人人質36人の解放において大きな役割を果たした。
猪木氏は傑出したプロレス親善大使でもあり、ロシアや中国などで大きなイベントを開催した。
1995年と2014年に平壌で行われた大規模なスポーツイベントの開催にも尽力した。
「平和のための平壌国際体育・文化祝典(Collision in Korea)」として知られる1回目のイベントは約38万人の観衆を集め、プロレス史上最大のペイパービューイベントとされている。
1998年、猪木氏はプロレスラーを引退した。2010年にはWWEの殿堂入りを果たした。
WWEの声明にはこうある。「プロレスへの情熱から、仲間内では『燃える闘魂』の異名を持った」
猪木氏はレスラーとして唯一無二の遺産を遺した。
IWGPヘビー級王座や、アジア人初のWWFヘビー級王座(WWEは公式には認めていない)をはじめとして、12度のプロレス世界王座に輝いた。
猪木氏の死因は発表されていないが、近年は闘病しており車椅子生活だった。