
ベイルート:アフラー・ハシェム氏はアレッポ攻囲戦を生き残った体験を振り返り、皆がどれほど創意工夫を凝らしたかを思い出す。
2016年後半、シリア政府軍は、反体制が占領するアレッポ東半分を封鎖した。住民27万人がその中にいたが、数ヵ月の間同軍とロシアの戦闘機が爆撃し、街は瓦礫の山と化した。食糧は枯渇した。他の人と同じく、ハシェム氏の家族は主に1日1回の食事で生き延びていた。
ある日、当時11歳だった長男ウィサムくんが出し抜けにこう尋ねた:「ママ、僕たち魚食べられない?」
同氏の3人の子供たちは、魚があまり好きではなかった。しかし、ほとんど何もなくなると、嫌いだったものでさえ恋しくなる、と同氏は振り返った。
ハシェム氏は、絶望感に打ちひしがれるのを良しとせず、カビの生えたパンを油で揚げ、コリアンダー、にんにく、アレッポの有名な赤唐辛子フレークを見つけて、子供たちにティラピアだと言った。誰もが、それが魚であるふりをした――子供たちは、魚の味がするとさえ言った。
「私だけではなく、アレッポのすべての女性たちは、子供たちに食べさせるためこうした工夫を凝らしていました」と同氏は述べた。
15日火曜日、ハシェム氏をはじめとするアレッポの生存者たちは、革命が発端となったシリアの内戦から11年を迎える。今年、生存者たちの多くは自らの運命を思案しているだけでなく、見慣れた恐怖、つまり砲撃、容赦のない攻囲や自国からの避難にウクライナの人々が直面しているのを見て衝撃を受けている。
シリアの戦争で、ロシアは、バシャール・アサド大統領の政権が冷酷な戦略によって優位に立つよう支援した。1つ、また1つと、反体制派の占領地域を封鎖し、住民たちが抵抗できなくなるまで、爆撃と兵糧攻めを行った。
アレッポの包囲戦は、最も残酷なものとなった。アレッポはシリアで最も人口の多い都市で、洗練された独自の料理と何千年もの歴史を持つ旧市街で知られる。
戦争が始まったとき、東部は革命的な熱気にあふれ、4年もの間政府を撃退した。しかし、6ヵ月近くに及んだ包囲戦により、東部の多くは人影のない瓦礫の山と化し、住民は死ぬか離散した。
ウクライナでは、港湾都市マリウポリで約2週間にわたり同様の大規模な攻撃が行われており、ロシアの爆撃の下、何万もの住民が食料や避難所を探し求めている。恐ろしいのは、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が、ウクライナ全域でシリアのやり方と同じ包囲戦略を拡大してゆくことである。
現在はロンドンで夫や子供たちと一緒に暮らすハシェム氏は、ロシアの侵攻初日からウクライナと連携して立ち上がったと述べた。
「多くの人々は、世界がシリアよりもウクライナに同情していることに私が腹を立てているかどうか尋ねます。私は、人々がもっと同情しても気にしないと伝えます。彼らが犠牲者となっていることが気がかりです」と語った。
まだ政府の支配下にはないシリアの一角では、別のアレッポ生存者であるアブドルカフィ・アルハマド氏もウクライナとの連携を試みている。
アルハマド氏は、反体制派が支配するイドリブ県に住んでおり、近くのトルコ支配下にある町アザズで文学科教授を務める。
授業で、「私はいつも、ジョージ・オーウェルの小説『 1984年 』に登場するビッグ・ブラザーを、シリアと現在のウクライナの両方でプーチンに結び付けています」と述べた。
アルハマド氏は今週、イドリブで記念として行われた地元の抗議活動で、シリア革命旗と並べて2つのウクライナ国旗を印刷した。
2011年にシリアの紛争が始まったとき、 ハシェム氏は学校の校長を務めており、活動家でもあった。反体制派が政府からアレッポの東半分を獲得したことなどから、シリアでの変化に対する同氏の期待は高まった。ハシェム氏は市を管轄する地方議会と協力し、抗議行動の組織化を支援した。
続く数年間、地方の反対勢力と戦うロシアと政府の戦闘機が、アレッポ東部を相次いで爆撃するようになった。ハシェム氏は学校を地下室に移し、暗くした部屋を教室やシェルターに変えた。同氏はそこで演劇を始め、学生が演じるための脚本を書いた。
戦闘が悪化するにつれて、かつての日常生活はさらに遠ざかった。いつも朝には、同氏の住むアレッポ東部を政府が支配する西部アレッポから分離している丘を通りかかる。
ハシェム氏によると、そこはベルリンの壁と同じくらい通行不能だった。近づきすぎると、狙撃兵に撃たれてしまう。しかし、同氏は車の音、反対側に住む友人たちや親戚の記憶を呼び起こすどんな音でも聞きたいと思っていた。
「私はいつも、『あの第二の宇宙ではどんな生活を送っているんだろうか』と考えていました」
2016年7月に東部が包囲されたとき、同氏の宇宙は完全な地獄へと転落した。
アレッポ東部は封鎖され、物資はほとんど入ってこなかった。ロシア軍と政府軍の爆撃は、病院や学校などあらゆるものを粉砕した。住宅街は廃墟のまま放置された。
早い時期に、ハシェム氏の生徒が1人殺害された。同氏は学校の演劇をやめた。この地区の数少ない庭園は墓地となった。薬が底をついた。絶えず爆発音が聞こえた。ハシェム氏のアパートは包囲戦の前および最中に何度も爆撃を受け、家族は度々転居した。
電気がなく燃料も限られていたため、住民は「プラスチックガソリン」に目を向け、プラスチック製のボトルや容器から燃料を抽出した。これは発電機に有害で、有毒な臭いを発した。とはいえ、車のバッテリー、携帯電話、小さなLEDライトを充電するための十分な電力を発生させるのに役立った。
調理用のガスがないため、家族は増え続ける爆撃で破壊された建物から家具や木片を集めた。
物価が急騰した。果物はなく、野菜もわずかしかなかった。小麦粉を手に入れるのはほぼ不可能だったので、ハシェム氏や他の家族は白い豆を粉砕してパンを作った。
冬の寒さが始まると、暖をとるための廃材も必要になった。同氏の子供たちは、中東全域で冬に好まれる、甘く温かい快適な飲み物、サーラブを恋しがった。蘭の根から作られているので、包囲戦中に見つけるのは不可能だった。
それで、ハシェム氏は再び即興で作った。同氏は貴重な残りの小麦粉を水に浸し、水と砂糖を加えて煮立てた。「これは、サーラブを別の方法で飲んでいるようなものでした」
その後まもなく、2016年12月下旬、同氏は避難協定に同意した何万人もの住民の中にいた。同氏は反体制派が支配するシリア北西部に行き、その後トルコに入った。
トルコの都市ガズィアンテップのアパートで、最初の夜、ハシェム氏は洗濯機が回転しているのを数年ぶりに見た――そして泣いた。戦後に政府が財産を没収する流れを反映して、シリア政権の兵士が同氏の古い家に住んでいると、今でも街に残る親戚から聞いた。
40歳の未亡人であるイマン・カレド・アッブード氏も、12月の霧が立ち込める日、今のウクライナと同じような気温の雪が降る厳しい寒さの中、アレッポを脱出した。
同氏は、何か月もロシアの攻撃を受けた後、避難用バスが検問所を通過した後、初めてロシア軍を見たと語った。同氏によると、息子と夫はロシアの爆撃で死亡した。爆撃にさらされる中、同氏とその家族は包囲戦の間に15回転居しなければならなかった。
アッブード氏は、ウクライナの人々が自分と同じ体験をしなくて済むよう望んでいると述べた。しかし、「食料品を買いだめしておいた方がいいとアドバイスしたいです」と言った。
2020年2月、ハシェム氏は英国アカデミー映画賞の授賞式に参加するよう招かれた。受賞作品「娘は戦場で生まれた」に出演したためだった。この作品はアレッポ包囲戦中の子供の誕生を追い、ハシェム氏の家族が目立つ形で登場する。英国で、同氏は亡命を申請することができた。
この戦争の節目となる日、ハシェム氏はロンドンでシリア政府に対する抗議活動に参加し、ロシアのウクライナ侵攻に反対する横断幕も掲げる予定である。
AP通信