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エリザベス女王に対し、揺るぎなき絆を育んだアラブ世界から追悼する

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11 Sep 2022 12:09:15 GMT9
11 Sep 2022 12:09:15 GMT9
  • アラブ地域にとって、女王の死は一国の君主の死というだけではなく、恒久的な同盟者の死をも意味する
  • 70年の在位期間中、サウジアラビアの君主による英国への公式訪問は4回を下らない

ロンドン:アラブ世界の国々は、70年にわたる在位期間中、アラブ地域とその人民の揺るぎない友であり続けた英国のエリザベス2世女王陛下の死を悼んでいる。

女王陛下はわずか3カ月前、即位70周年の「プラチナジュビリー」を迎えたばかりだった。

去る6月、サウジアラビアのサルマン・ビン・アブドルアジーズ・アール・サウード国王とムハンマド・ビン・サルマン・ビン・アブドルアジーズ・アール・サウード皇太子殿下は、「心からの祝福と最高の健康と幸福」を祈り、アラブ地域の他国の首脳とともに、彼女のプラチナジュビリーに際して祝辞を送っていた。

そして今、彼らは、英国王室と英国国民に心からの哀悼の意を表するという悲しい使命を担っている。

エリザベス女王、エディンバラ公を訪問中のサウジアラビアのアブドゥラー国王。(AFP、資料写真)

中東の多くの王家にとって、女王の死は、同じ君主であると同時に友人の死でもある。今回の訃報によって、女王在位初期から続く友情の歴史に、悲しい終止符が打たれることになった。

その治世は1952年2月6日に始まった。25歳のエリザベスと夫のエディンバラ公フィリップがアフリカ視察でケニアに滞在中、父親のジョージ6世がノーフォークのサンドリンガムハウスで死去した日だった。

王女としてアフリカを訪れるため英国を離れていた国王の娘は、喪に服し、エリザベス2世として急遽、飛行機で帰国した。そして翌1953年の6月2日、ウェストミンスター寺院でその戴冠式が行われた。

式典には、アラビア湾岸諸国の4つの王家の人々が招かれた。当時英国の保護領であったバーレーン、クウェート、カタールの君主またはその代理人、そしてサウジアラビアの創設者であるアブドルアジーズ初代国王(当時78歳、この5ヵ月後に死去)の代理として、ファハド・ビン・アブドルアジーズ・アール・サウード王子が参列したのだった。

サルマン国王、ムハンマド・ビン・サルマン皇太子と会見するエリザベス女王。(AFP、資料写真)

英国王室とサウジアラビア王室の絆は、公式行事の頻度だけでは測れないが、バッキンガム宮殿が主催する国賓訪問の歴史を調べると、それが明確に見えてくる。

女王在位中にサウジアラビアの元首が英国を公式訪問した回数は、4回を下らない。この数に至ったのは、英国の近隣国であるフランスやドイツを含めても世界で4カ国しかない。

サウジアラビアの君主として初めてロンドンを訪れたファイサル国王は、1967年5月に行った8日間の英国滞在の初頭、国賓として華々しく迎えられた。

この時国王は、女王陛下をはじめとする英国王室関係者や、ハロルド・ウィルソン首相をはじめとする有力政治家に迎えられた。そして女王とエディンバラ公と共にオープン式の御召馬車でロンドンの街並みを疾走し、沿道の歓声に包まれながらバッキンガム宮殿に向かった。

国王は多忙なスケジュールの中、ロンドンのイスラム文化センターを訪れ、祈りを捧げた。この年にリンカンシャー州のクランウェル王立空軍士官学校を卒業した息子のバンダル王子も、サウジアラビアへの輸送任務を準備していた英空軍イングリッシュ・エレクトリック ライトニング戦闘機の施設を父の代理として訪問、視察した。

王子は後に、サウジアラビア空軍のパイロットとして、このライトニング戦闘機を操縦することになる。

その後、ファイサル国王の後を継いで、1981年にはハーリド国王、1987年にはファハド国王、2007年にはアブドゥラー国王が、それぞれ英国を国賓として訪問した。

アラブ地域の他の君主らも、長年にわたって女王を公式に訪問している。最初は、1956年7月に英国を訪問したイラクの最後の国王、ファイサル2世である。その2年後、イラクを共和国として成立させたクーデターにより、夫人をはじめとする王族は暗殺された。

1966年、エリザベス女王はヨルダンのフセイン国王と英国生まれのトニ・アブリル・ガーディナー夫人を迎えた。同夫人は結婚後、ムナ・アル・フセイン王女と改名している。

英国のエリザベス女王2世と、当時のアブダビのシェイク・ムハンマド・ビン・ザーイド・アル・ナヒヤーン皇太子。女王はUAE副大統領兼ドバイ首長であるシェイク・モハメド・ビン・ラーシド・アル・マクトゥーム氏と面会した。(AFP、資料写真)

さらに、オマーン、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦(UAE)、エジプト、クウェートの国家元首も、国賓として英国を訪問した。

一方の女王も、何度か中東を訪問している。1979年2月、超音速ジェット機コンコルドに乗り込んで中東の旅に向かった女王は、アラビア湾岸のクウェート、バーレーン、カタール、UAE、オマーンを巡り、リヤドやダーランを訪問した。

サウジアラビアではハーリド国王のもてなしを受け、デザートピクニックやリヤドのマーター(Maathar)宮殿での公式晩餐会などの一連の行事を楽しんだ。その返礼として、女王とフィリップ殿下は、女王陛下のヨット「ブリタニア号」で、サウジアラビア王室のための晩餐会を催した。

残念なことに、このブリタニア号は1997年12月に退役したが、その直前の同1月、退役前の最後の航海の途中にもう一度だけ、アラビア湾岸に来航している。

女王は2010年、再びアラビアの地を訪れ、UAEの統治者であるハリーファ大統領とオマーンのスルタン・カブース国王と会見した。

しかし、英国王室とアラビア湾岸の王室との関係は、大掛かりな公式の場でのものにとどまらない。バッキンガム宮殿が定期的に発行している「宮廷報告書」を分析すると、2011年から2021年の間だけでも、英国王室の一族が湾岸諸国の君主やその一族と200回以上、面会したことが明らかになっている。この非公式の面会のうち40回は、サウード家の一族との会談だった。

1981年、英ヴィクトリア駅でエリザベス女王に迎えられたサウジアラビアのハーリド国王。(Alamy)

こうした中東の元首らとの会談はほぼ2週間に1回という頻度で行われており、女王陛下と中東との間に、強い友好の絆があったことを証明している。

その一つが、2018年3月にサウジのムハンマド・ビン・サルマン皇太子がバッキンガム宮殿で女王と私的な謁見を行い、昼食をとったときの面会だった。その後、当時の英国のテリーザ・メイ首相やボリス・ジョンソン外相との会談を含む英国訪問を行った際にも、クラレンスハウスでウェールズ公やケンブリッジ公と食事をした。

こうした場では、貿易や国防に関する協定など、重大な議題が話し合われることも少なくない。しかし、2003年から2006年まで駐サウジアラビア英国大使を務めたシェラード・カウパー・コールズ卿が後に回想したように、それは堅苦しい形式ではなく、気さくで打ち解けた王室間のプライベートな面会の性格を帯びていた。

例えば、サウジアラビアの将来の国王であるアブドゥラー皇太子は2003年、スコットランドにある女王所有のバルモラル城に、女王のゲストとして滞在した。この時皇太子は初めてバルモラルの地を訪れ、広大な敷地の見学ツアーの招待を喜んで受け、ランドローバーの助手席に乗り込んだのだが、その運転手兼ガイドは、他ならぬ女王自身であることが分かったのだった。

2010年には、オマーンのスルタン・カブース国王が訪英した際にも、女王は再びバルモラルの地に来て面会した。(AFP)

第二次世界大戦中、英国軍の運転手として活躍した女王陛下は、バルモラルでは常に自ら車を運転した。地元の人々は、女王が愛車のランドローバーで外出するのをよく見かけたという。彼女は、時に来客の心配をよそに、狭い田舎道や敷地内の起伏に富んだ地形の中を走り回り、すこぶる運転を楽しんだことでも知られている。

シェラード卿の話によると、アブドゥラー皇太子も、そうした即席のジェットコースターのようなドライブを上手に乗りこなしたそうだ。それでも、ある時点では、皇太子は「自分の通訳を通して、女王にスピードを落とし、前方に集中するよう懇願しなければ」との義務感に駆られたという。

女王と湾岸諸国の君主たちは、王族という共通点もさることながら、少なくともエリザベスが11歳の王女だった1937年まで遡れるほど、長年の馬好きだったという共通点から言っても、深い絆があった。

サウジアラビアのアブドルアジーズ国王は、1937年の父の戴冠式を記念して、英国国王ジョージ6世にアラビア産の雌馬を贈った。その馬「ターファ」(Turfa)の等身大のブロンズ像が、2020年にディルイーヤのアラビアン・ホース・ミュージアムで除幕された。当時、駐サウジ王国英国副大使だったリチャード・オッペンハイム氏は、両王室が常に、この馬という共通の関心事を共有してきたことについて、次のように語っている。

(左から時計回りに)エリザベス女王とクウェートのシェイク・サバ・アル・アハマド・アル・サバーハ首長。同女王とカタールのシェイク・タミーム・ビン・ハマド・アール・サーニ首長。同女王とヨルダンのアブドッラー2世国王、ラニア王妃。(AFP、資料写真)

「女王は多くの馬を所有している、サルマン国王やサウジアラビア王室もまた、長年にわたって馬を愛し続けている」

また、女王は、ドバイの統治者のUAE副大統領でもあるシェイク・ムハンマド・アル・マクトゥーム氏との間でも、馬に対する感謝の気持ちを共有していた。同氏は、英国競馬の本場ニューマーケットで、世界的に有名なゴドルフィン所属の競走馬の厩舎と種馬飼育場を所有している。

2人は、英国における社交の季節の華とみなされ、毎年5日間にわたって開かれるロイヤル・アスコット競馬をはじめ、各種の大きな競馬の祭典の場でもよく顔を合わせた。チーム「ゴドルフィン」はこのロイヤル・アスコットで何度も優勝しており、女王の馬も女王即位以来、70勝以上している。

今年、アスコットでは女王の所有馬が10頭出走した。しかし、運動機能の低下に苛まれる女王は、このイベントに参加しなかった。70年にわたる在位期間中、女王がこのイベントを欠席したのは初めてのことだった。

女王の在位期間中に英国の首相を務めた人物は、16人を下らない。1952年に即位した時には、第二次世界大戦中の指導者として尊敬を集めたウィンストン・チャーチルが首相を務めていた。チャーチルの後任のアンソニー・イーデン元首相は、1955年にエリザベス女王によって任命されており、バッキンガム宮殿で同女王の公式の祝福を受けた首相15人のうちの最初の一人となった。

エリザベス女王(1926~2022)(提供写真、英国王室)

女王がこの伝統を破ったのは一度のみ、それも在位期間の最後の時期だった。衰弱の度を深めた女王は、スコットランドの自宅であるバルモラル城からロンドンに移動しないようにと医師からアドバイスされた。そして今週の6日の火曜日、その静養先のバルモラルで、新しく保守党のリーダーに任命されたリズ・トラス氏に会い、組閣を依頼した。

それが、彼女の長い治世における最後の公務となった。

6月の「プラチナジュビリー」の週末には、英国内と1億5千万人の英連邦の家庭や公共施設に国旗が翻り、何千ものストリートパーティーが開かれた。英国中にかがり火が灯され、いたるところで市民が歌う英国の国歌が聞かれた。

今日、英国国旗の半旗掲揚が行われ、王室のバトンが女王の長男であるチャールズ新国王に渡される。英国国民は今、70年間歌ってきた国歌の歌詞「神よ女王を守り給え」(God Save The Queen) を、今一度「神よ国王を守り給え」(God Save The King)に変更して歌う必要があるのだ。

21歳の誕生日、まだ王女だった未来のエリザベス女王は、ケープタウンからラジオで放送されたスピーチで、次のような厳粛な誓いを立てた。

「皆さんの前で宣言します。私の生涯は長くても短くても、皆さんのために捧げます」

女王の生涯は、幸いなことに長かった。その義務への献身は、ここに完結したのだ。

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