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イスラエルによるガザとの紛争:名目上は付随的被害、本質的には殺人

ヨルダン川西岸の村カフィンで、銃撃犯と思われる人物を捜索するイスラエル軍兵士。(AP)
ヨルダン川西岸の村カフィンで、銃撃犯と思われる人物を捜索するイスラエル軍兵士。(AP)
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31 May 2023 05:05:25 GMT9
31 May 2023 05:05:25 GMT9

ヨシ・メケルバーグ

いかなる軍事勢力も道徳的、倫理的であると見なされたければ、民間人を標的にしないことが必須である。一定の条件下では、民間人に危害を加えることは、紛れもない戦争犯罪である。意図的であれば確実にそうである。しかし、民間人が命を失い、重傷を負い、財産を損なわれることによって、大きな代償を払わずにすんだ戦争は過去に一度たりともないのである。そして、そのような危害をもたらす行為は大抵の場合、それを指示した者であろうと実行した者であろうと、全く裁かれることがない。

 

今月も、イスラエルとパレスチナ・イスラム聖戦の間で繰り広げられたガザにおける最新の敵対行為において、女性や子どもを含む少なくとも13人のパレスチナ人市民がイスラエル国防軍によって殺害され、一方で、イスラエルで働くパレスチナ人労働者とイスラエル人高齢女性の2人がパレスチナ・イスラム聖戦のロケット弾によって殺害された。罪のない人々が殺されるだけでも十分憤りを感じることだが、さらに追い打ちをかけるように、このような行為は往々にして、人々の無関心と、犠牲者は「付随的被害」に遭ったに過ぎないという婉曲な表現が後に続く。こうして、犠牲者は非人間化され、その家族に与えられた苦しみが矮小化される。

 

イスラエルでは、付随的被害という用語は、ある種の正当化として使われるようになっており、さらには、国防軍に殺された人々を「間違った場所に、間違った時機にいた」と非難し、殺人者を免責する手段とさえなっている。私の見方では、これは、イスラエル社会が、占領され、封鎖され、政治的・市民的権利はもちろん、基本的人権も奪われたパレスチナの隣人の苦しみに対して、鈍感になっているどころか、まったく無感覚になっていることを示すものだ。

 

付随的被害の弁明者たちが頻繁に使い、最も反証されてきた主張の一つは、ハマスやパレスチナ・イスラム聖戦もまた民間人を攻撃しており、しかも意図的にそうしているというものだ。これは否定しようもないことだが、両者は国際的にテロ組織として認定されているのに対して、イスラエルは国家であって、それらとは一線を画した行動基準が求められており、パレスチナ・イスラム聖戦やヒズボラのような組織と同じように見なされ、扱われることを望まない限り、それに従って行動すべきだ。

 

もちろん、この恐ろしく腹立たしい用語と、それと対になる「比例原則」という概念に対して、このような自由放任主義的な姿勢をとっているのはイスラエルだけではない。

 

「付随的被害」はベトナム戦争で使われるようになり、数十年かけて軍事専門用語だけでなく、あまりにも多くの国の政治的言説に定着した。ロシアはさらに一歩進んで、ウクライナの全住民を正当な戦争標的として扱った。1999年には、ドイツの言語学者が「付随的被害」を、民間人の犠牲を矮小化しているとして「今年の言葉ならざるもの(un-word of the year)」に選んだ。

 

この用語の主な目的は2つある。過去の残虐行為を正当化すること、そして将来の残虐行為を妥当なものとすることだ。しかし、軍事的な状況に関連して使われる婉曲表現はこれだけではない。「強化された尋問」とは何か。世界人権宣言で禁止されている拷問でなければ何なのだろうか。「標的型殺人」とは何か。暗殺でなければ何なのだろうか。「囚人特例引き渡し」とは何か。法的根拠のない誘拐行為でなければ何なのだろうか。これらの用語が一般的に使われるようになると、それを使う人々の良心を和らげる働きをする。政府が彼らのためと称して罪のない人々の命を破壊する間、彼らの安眠を助けるのである。

イスラエル社会は、パレスチナの隣人の苦しみに対して、鈍感になっているどころか、まったく無感覚になっている

ヨシ・メケルバーグ

イスラエルの「盾と矢」作戦」の初日の夜について、少し考えてみよう。「軍事作戦」、つまり戦争行為の名称は、その破壊的で致命的な性質を覆い隠し、矮小化するためにも存在する。イスラエルが、最近のイスラエル市民への攻撃に関与しているとして、パレスチナのイスラム聖戦の司令官3人を攻撃したこのケースでは、「付随的被害」が醜悪にも使用されていることが見受けられる。過激派を標的としたからと言って、10人の市民が殺され、そのうち4人の子供と4人の女性が死亡し、さらに大勢が負傷したこの空襲を、正当化できるだろうか。

 

たとえば、ガザ市のアル・ワファ病院の院長であり、名の知れた歯科医であるジャマル・カスワン医師が、妻のマーバトと息子のユセフとともに殺害されたことを、イスラエルはどのように正当化できるだろうか?パレスチナ・イスラム聖戦の司令官の隣人であることは、死刑に値する罪なのだろうか。また、イスラエルの空襲によって殺された12歳と8歳の兄弟であるマヤールとアリ・イゼルディーンの例もある。イスラエルから見れば、兄弟は、攻撃で同じく標的となり殺されたパレスチナ・イスラム聖戦の幹部武装勢力タレク・イゼルディーンの子供であるという事実、つまりは単に出生という偶然によって「正当な」標的とされたのである。

 

イスラエル政府関係者からの謝罪や悲しみの表明は一切ない。さらに言えば、私たちもそれをわざわざ待とうとするべきではない。また、イスラエル社会のより健全で人道的な人々の代表者であるはずのアナリストやコメンテーターたちも、イスラエルが今回の殺人行為によっていかに「抑止力を回復」し、パレスチナ・イスラム聖戦の指揮系統やインフラに大きなダメージを与えたかを語りたがる一方で、今回の敵対行為の罪のない犠牲者のことはほとんど無視したままだった。

 

彼らが語りたがらないのは、罪のない子供たちの殺害に対する感受性を失った国が、いかに人間性、道徳、魂を失いつつあるかということであり、やがて国際的な支持を失うであろうということである。ごく当たり前のことを言えば、民間人(イスラエルが悪とみなす人々の家庭にたまたま生まれた者も含む)は、ドローン攻撃や精密誘導弾から免れるべきだ。なぜなら、誰にも彼らの人生を断つ権利はないからだ。

 

他のイスラエルの政治家やアナリストは、テレビスタジオを歩き回りながら、イスラエルのガザでの軍事作戦がいかに「比例原則」に則っているかを説明していた。しかし、その裁定者は誰なのだろうか。予防、抑止力、あるいは比例した復讐の問題なのか。イスラエルは、罪のない人々の殺害を「抑止力」と呼ぶことで、その道徳的基盤を失いつつあることに気づかず、また、子供が大人になる前に一生を終えるような超法規的殺害に国の安全保障が依存しないような将来の解決策を見失ったままでいる。

 

イスラエルの安全保障のパラダイムでは、パレスチナ人全体が付随的被害を食らうことになる。ヨルダン川西岸地区の占領とガザ封鎖の下、パレスチナ人は日々、直接的または間接的に殺されている。それは、ある時は銃撃によるものであり、別の場合は病院の予約が許されなかったり遅れたりしたためであり、また別のケースでは数十年にわたってイスラエルに強いられた極度の貧困の結果であったりもする。パレスチナ人に日々もたらされる被害、死、破壊はあまりにも明らかだが、イスラエル社会で現在起こっていること、好戦的な政府による権威主義への転換を見れば、これがいかにこの国の変化(しかも悪い方向への)に寄与しているかがよくわかるだろう。

  • ヨシ・メケルバーグ氏は国際関係学教授、チャタムハウスMENAプログラムアソシエイトフェロー。国際的なアナログ・デジタルメディアに定期的に寄稿している。

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