史上でも特に分断と不和が際立つ時代のただ中にあって、人類はトルコとシリアの震災の悲劇を経験して初めて、人間として、社会として、そして他の国々や人々との関係においても、誰にとっても本当に大切なものは変わらないことを知り、団結している。ニュースやソーシャルメディアのフィードが24時間流れ続ける今、すでに45,000人の命を奪い、大勢のけが人を出した災害を人々は目撃し、驚愕している。目の前で繰り広げられる想像を絶する惨状はホラー映画のようだが、それは現実であり、実際に起きている苦しみである。
救助隊ががれきの中から生存者を引っ張り出すのを息を詰めて見守る。子どもでも、妊婦でも、高齢者でも、とにかく誰かが助け出されるたび、一瞬であっても私たちの心は喜びにあふれ、危険な状況下で献身的に活動を続ける勇敢な人々への感謝の気持ちがわいてくる。そして一人でも多くの生存者が見つかるようにと願う。
世界中の人々が、とてつもない被害を前にして突如として同じ苦痛を味わい、心をひとつにしている。救助隊が遠方各地から駆けつけ、何百万人もの人々が財布を開いて人道支援を行う国際機関にできる限りの寄付をしている。数十カ国が、地震発生直後から救助隊を派遣するなどさまざまな形の支援を行った。国際社会は、いずれ始まる復興のために、すでに数十億ドルの支援を約束している。だが、政治情勢が理由でシリアは他地域と比べると物資面でも精神面でもそのおびただしい支援の恩恵を受けられていない。
この災害に強く心を動かされ、手を差し伸べようとする人道的な反応は感動的であり、ごく当然のことだと思うのと同時に、疑問も抱く。今回のような仲間意識、深い共感、利他、国際協力の感覚が、場合によって湧き上がるときとそうでないときがあるのはなぜなのか。とりわけ、人為的なできごとに対しては同じ反応が続かないのはどうしてだろう。自然災害のいつ何が起こるかわからない性質と凶暴性には特別な何かがある。それが明らかに誰のせいでもないという事実ゆえに人々は悲しみの中で団結する。金銭、食品、毛布、衣類、テントを寄付したり、救助のために現場に駆けつけたり、考え得る限りの手段で犠牲者を支援し、慰めたい、ゆくゆくは荒廃した地域の復興を助けたいと願う。
このような反応は尊重されるべきだし、賞賛にも値する。だが、それは残酷な災害以外にも広げられるべきではないか。別の問題にも同じ規模で臨めば何百万人もの命を救い、さらに多くの人々の生活を向上させられるかもしれないのだ。ところが、国や社会はそのような問題に協力すれば国益を損ない、他者を支援すればリソースを奪われると思い込む罠に陥る。全体像を俯瞰できず、支え合えば単なる個々の総和よりも大きな力になることを認めようとしない。
自然災害の凶暴性には、悲しみの中で人々をひとつにする特別な何かがある。
ヨシ・メケルバーグ
ホッブズの「自然状態」の思想を完全に破壊することが現代の大きな課題だ。人間は戦争するのが自然な状態なのだという前提が私たちの思考を支配し、その結果、他者を友人や味方ではなく、脅威や敵になり得るものと見なす。生存を脅かす大きな問題に対処する上では、それよりもジャン・ジャック・ルソーの「社会契約」をグローバルな契約に変換する必要がある。その契約のもとでは、合意されている一連のルールに則って協力することで、私たちの生存が保証され、生活水準が上がり、幸福感が増す。
自然災害はほぼ前ぶれなく突然巨大な破壊力を伴って現れるため、人はその結果を制限するような行動をとることに集中する。ところが不可解にも、気候変動の危機、戦争や紛争、あるいは政治的、社会的、経済的発展の必要性などの重大な実存的問題に直面してそのような行動を起こすことはほとんどない。人の注目の持続時間はこの相違の原因のひとつだろう。ニュースとソーシャルメディアの配信が24時間流れ続ける中では無理もない。だがそれだけでは単純化しすぎで、人間として、また国家に基づくシステムの一部としての人間のより深刻な欠陥を見落とすことになる。
人には本能につき動かされる部分もあるが、それよりも行動を決めるのは教育、社会化、教化である。「他者」に協力したり親切にしたりすることを選べるときでさえ、相手を信頼せずに疑ってかかり、自身を優先するよう覚え込まされている。トルコとシリアの地震レベルの災害が起きてようやく人は共感を抱き、全体の利益のために身にしみついた不信感を捨てる姿勢を示すのである。
このつかの間のあふれる思いやりと支援、そして社会のさまざまな分野とリソースを価値ある目的のために動員し、事態の改善手段を見極める明確なビジョンを、他のところにも適用できないだろうか。ウクライナの戦争でそれはある程度実現しているが、世界の大半がロシアの侵略者よりもウクライナを支持しているにもかかわらず、1年たった今も何千人もの罪のない人々の血を不必要に流し続け、対立は深まっている。だが、それは人的災害であるために、共通認識のもとでそれを止めよう、悪夢のような影響からの再建、復興、回復を進めようとする流れにならず、侵略者やそれを支える人々によって紛争は激化している。
類似する件として、地球温暖化対策の手段については原則として合意があり、人類を絶滅に追い込みかねない規模の災害が迫っているにもかかわらず、実行段階になると党派的で偏狭な利害関係が絡んで進まない。目的意識と適切なリソースの配分を伴う地球温暖化対策の統一戦線を確立すれば、トルコとシリアの地震よりもさらに大規模な災害を回避できるかもしれないが、そのためには既得権益を二の次にしなければならない。まさに現状とはほど遠い。
自らの行為によって引き起こされる災害なら予防ができるように思えるが、私たちは自然災害に襲われたときに示すのと同じ論理、共感、無私の精神で積極的に対応しようとはしないのだ。手遅れになる前にこの態度を変えるには、人類の一員であることの意味とその守り方を考え直し、実現していくための制度やツールを構築する必要がある。
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