
ワシントン:米国海軍は、ファルージャ市にちなんだ名称を次期強襲揚陸艦に与える予定である。同都市は、イラク戦争において、米海兵隊がアルカイダ過激派との間で最も血生臭い市街戦を繰り広げた場所である。
カルロス・デル・トロ米海軍長官は、米国艦船USSファルージャは、強襲揚陸船に海兵隊の戦闘、初期の帆船や空母の名前を付けるという伝統に従い、「ファルージャの第一次および第二次戦闘」として知られる戦闘を記念して命名される予定であると語った。
デル・トロ氏は27日火曜日の声明で、「ファルージャの両戦闘において勇敢に戦った海兵隊員、兵士、有志連合、そして命を捧げた人々を称えることは光栄です」とで述べた。
バグダッドから約65キロの地点に位置する同都市は、米国が主導した2003年侵攻によりサダム・フセイン氏が倒された後、反政府スンニ派の反乱の拠点となった。
アルカイダ過激派はシーア派が支配的なバグダッドの政府に反旗を翻し、2004年、ファルージャで米軍と2度の激しい戦闘を行い、米国人死亡者は100人以上、負傷者は1000人以上となった。
ファルージャでの第一次戦闘は、5人の米兵が道路脇の爆弾により死亡し、ブラックウォーターUSA社の警備要員4人が死亡するなど、市内での暴力行為の増加が引き金となって生じた。
警備要員は殺害され、遺体は燃やされた。うち2名の遺体は橋から吊るされ、この殺戮の様子はメディアに配信された。
これに対して海兵隊は同市を制圧するため数日間の戦闘を行った。
転機となったのは、モスクから発射されたロケット弾が海兵隊車両に当たり、5人の海兵隊員が負傷したことであった。
米軍はモスクに集結し、最終的にモスクの尖塔のもとにヘルファイアミサイルを撃ち込み、F16戦闘機が500ポンドの爆弾を投下して数十人を殺害し、反米感情をあおった。
それから1ヵ月以内に米軍はファルージャから撤退し、イラクの地元治安部隊に支配権を譲り渡した。
第二次戦闘が行われたのは2004年11月のことであった。
米軍と英国およびイラクの軍隊による大規模な空爆と地上戦が行われ、ファルージャを制圧した。
数十人の米国人と数百人の過激派が死亡し、街の大部分が損傷、破壊された。
当時、市内にいたイラク人ジャーナリストは、「人々は、窓の外を見ることさえ恐れています。
狙撃兵がいるからです。米国人は動くものなら何でも構わず撃つのです」と語っている。
当時米軍統合参謀本部議長を務め、現在は退役しているリチャード・マイヤーズ元大将は、「何百人もの反乱兵が」殺害され、捕らえられたと述べた。リチャード氏は、ファルージャでの作戦は「非常に、とても成功しました」と述べるが、反乱を終結させるには至らないだろうと語っていた。
彼は、「ファルージャによってイラクの反乱を終わらせると考える人がいるかもしれませんが、それは決して我々の目的ではなく、我々の意図でもなく、希望でもありません」と述べた。
その10年後、ダーイシュがイラク全土を制圧して攻撃を劇的に開始したため、ファルージャは再び反乱の温床となった。
約2年の歳月と、米軍によるイラク再入国によってようやく同市は奪還され、イラクの主要都市からダーイシュ過激派を追い出す重要な一歩が踏み出されたのであった。
デル・トロ氏は、艦名の発表に加えて、USSファルージャは今後、海兵隊総司令官デイヴィッド・バーガー元帥の妻であるドナ・バーガー氏がスポンサーとなると述べた。
AP