
イラン政府は、国内の反対派を威嚇によって弾圧し、デモは暴力で鎮圧しようとしてきた。これは以前から見られていたが、近年顕著になっており、政府はしばしば大量殺戮によってその権力の維持を図っている。しかし、今回は、そのやり方が上手く行っていないようだ。
抗議活動は続いている。政権による国民の精神的支配は確固たるものであるという主張を一部の国際監視団が続ける一方、テヘランから遠く離れた地方や宗教色の強い町を含めた全国で、女性を先頭にしてイラン人達が街頭に繰り出している。
女性たちはスカーフを取り去り、儀式的に髪を切り、宗教指導者達に公然と挑戦している。
政権がどう対応するかについては、過去の例から想像出来よう。暴力、破壊、そして、殴られ、拷問され、殺されているイランの女性達を助けるために世界は何もしないだろうという仮定の元に対応するのだ。残念ながら、その仮定はほぼ確実に正しい。
だが、イランの指導者達とイスラム革命防衛隊は、過去に国民が不満を募らせていた時期とこれらの抗議がどう違うかを、まだ理解していないかもしれない。近年の抗議活動のほとんどは、燃料価格や食料品の高騰などの経済的状況から始まっている。神政独裁政権における抗議活動の傾向上、それらの抗議活動は必然的により政治的になった。
しかし、これらの抗議活動は違っている。政府を根本的に変革、または打倒することを目指した、最初から政治的なものだったのだ。
政府の「道徳警察」が22 歳の女性、マフサ・アミニさんを殺害した後、その残忍な死は抗議行動を引き起こした。イランの人々が抗議しているのは、そのような行為をする政府に対してなのである。
それは抗議活動に新たな側面をもたらした。これらのデモは、国民がいかに苦しんでいるかを政府に理解させることを目的とした抗議のような、物質的な状況に対する不満の表明ではなく、むしろ実存的なものである。独裁者の死を要求するイランの女性達が、街頭で警棒で殴られたり、一斉射撃で追い払われたりすることはまずない。
このような状況では、多くの場合、その逆が当てはまる。平和的な抗議行動から生じたいわゆるアラブの春においてそうであったように、人々が政権打倒のために決起した時、暴力によってその考えを変えることはできないのである。
燃料価格低下の目的で命の危険をさらすのをやめさせようと説得するのは容易であろう。だが、政府の将来が危機にある時、人々はより勇敢になり、どんなに悪い条件も覆す。友人や同胞を殺された人々は、更に反対活動を拡大し、より大きな勇気を伴う目的へと駆り立てられるものなのだ。
これらのデモは、物質的な状況に対する国民の不満の表明ではなく、むしろ実存的なものである
アジーム・イブラヒム博士
スーダンでは、過去10年間の終わりに、畏怖されていたイスラム主義独裁者オマール・バシールの数十年間にわたる支配を、女性に率いられた別の抗議活動によって覆すことに成功した。それは、社会全体を、反抗的、同情的、勇敢で、より広い社会的関心に注意を払うように結集して、独裁者の支配に相対することによって行われた。
イランにおける抗議活動はまだ初期である。今後、事態はさらに悪化するだろう。イラン政府は、これまで展開してきた以上に大きな圧力で対応するであろう。近いうちに、何百人ものデモ参加者が殺されることもあり得る。活動家達が刑務所に姿を消し、死体として釈放されるだろう。個人女性指導者達は、政権によってひどい虐待を受けることであろう。
残念ながら、これは避けて通れるものではない。イラン政権にとって、国民の意志に対応する方法はこれだけなのだ。
しかし、イランの女性達がこれらの脅威全てに打ち勝てれば、つまり、彼女達自身の正当な恐怖を克服できれば、あらゆる規模のいわゆる道徳警察から解放されるだけでなく、国の未来を圧倒的に良い方向へと導いて行くことができるだろう。
イランにおける大規模な改革はまだ起こりそうにない。政策の主流は、宗教指導者の統制下にある。そのような状況では、改革は行われ得ない。
革命防衛隊は、自立した寡頭体制で、国の経済の大部分を統制している。数十万人の兵士を街頭に送ることができるのだ。罪のない人々を殺すことに良心の呵責など持っていないのである。
しかし、イランの女性達がこれらの脅威に挑戦し、自国の男性達にも同様に勇気を示すように促すことができれば、イランに変化が訪れるかもしれない。
これは長年の懸案であり、難しい行程が待っているだろう。だが、イランの女性達が自らの解放に乗り出せば、女性の支配の上に構築された神権政権の未来は、日ごとに不安定になって行くのである。