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廃墟からヨーロッパの王者へ — ベルリンの壁がドイツをどう変えたか

1989年11月11日朝、ベルリンの壁の前で、東ドイツの国境警備隊が東西間の通行場所を新たに開くために壁を一部撤去している様子を眺める西ベルリン市民の群衆。(AFP通信)
1989年11月11日朝、ベルリンの壁の前で、東ドイツの国境警備隊が東西間の通行場所を新たに開くために壁を一部撤去している様子を眺める西ベルリン市民の群衆。(AFP通信)
11 Nov 2019 02:11:47 GMT9

11月9日はドイツの歴史において重要な日だ。悲しい記念日でもあり、喜ばしい記念日でもある。

1938年のこの日、ナチスは「水晶の夜」別名「11月ポグロム」を企てた。ユダヤ系ドイツ人の会堂や企業に火が放たれ、ユダヤ人の手による本や楽譜が燃やされた。衝撃的なことに、ドイツでは再び反ユダヤ主義が高まりつつある。また、イスラム嫌悪も大きなテーマとなっている。

11月9日は、自由と民主主義を希求する人々の不屈の精神を表す明るい日でもある。ちょうど30年前のこの日、東西ドイツを隔てていた壁が崩壊した。というよりも、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の政府が市民にかけていた規制を撤廃し、自由に西側へ行けるようにした、と言った方がいいかもしれない。

この重大な日にいたるまでには、相当な出来事の積み重ねがあった。5月には、東ドイツと同じくソビエト政府が率いるワルシャワ条約機構の加盟国であったハンガリーが、オーストリアとの国境に敷設されていた鉄条網を撤去した。「汎ヨーロッパ・ピクニック」と呼ばれた政治集会の間、ハンガリーはオーストリアへの国境を一時的に開放し、600人の東ドイツ国民がまずオーストリアへ脱出してから、電車でドイツ連邦共和国(西ドイツ)へと移動することを許した。同年9月30日には、当時の西ドイツ外相がプラハの西ドイツ大使館に逃げ込んできていた大勢の東ドイツ国民に対し、西ドイツへの入国を許可すると発表した。10月からは、東ドイツのさまざまな都市で、何万人もの人々が圧政に反対するとともに旅行の自由を求めるデモを行った。デモによる逮捕者は数千人にも及んだ。この動きは10月7日、晩の礼拝を終えて教会を出た制御不能なほど大勢の人々が、公民権のためにデモを行ったことから始まった。

この一連の出来事は天安門事件を背景に起こったが、その後の展開はまったく違うものだった。

11月9日、国境が解放され、何千人もの人々がこれに乗じて西側へ移動した。西側からも、様子を見るために東側へ行ってみる人が数多くいた。

大晦日には、デヴィッド・ハッセルホフがベルリンの壁の残骸の上にクレーンで吊られたまま「I have been looking for freedom」を歌った。

東側も西側も、街は高揚感で溢れていた。しかし、東西ドイツの再統一にはそれからほぼ丸1年という時間がかかった。11月9日、当時のヘルムート・コール首相はブダペストにいた。コール首相は、この出来事がドイツの再統一につながることを即座に理解できたわけではなかった。それは米国のジョージ・ブッシュ大統領や英国のマーガレット・サッチャー首相も同じだった。フランスのフランソワ・ミッテラン大統領にいたっては、統一ドイツは欧州の平和と安定にとっての脅威であると見なしてさえいた。

東ドイツの平和的解体とそれに続いてのドイツ再統一は、それ自体が非常に大きな成功であるということを忘れてはならない。

コーネリア・マイヤー

しかしその日の出来事はまさしく、40年以上にわたって分断されていた国の再統一へとつながるものだった。では、この出来事が起きて以降、ドイツには何が起こったのだろうか。また、私たちは東ドイツの崩壊から何を学べるだろうか。

初期の高揚の後、再統一は東西の両方にとってかなりの経済的負担をもたらした。1:1で通貨交換を行うという決断は大きな損害を生み、広く批判を浴びた。新たに加わった東側と旧来の西側との経済格差は、1990年時点で57%もあった。現在でも25%の格差があり、東側の経済発展を支援するため、「連帯税」が最近まで納税者に課されていた。

ドイツ人は今でも、自らをオッシー(東ドイツ人)またはヴェッシー(西ドイツ人)に分類している。ヴェッシーはしばしば経済的に優位であると感じており、オッシーの多くは不当な扱いを受けていると感じている。政党「ドイツのための選択肢」が東側でより支持を集めているのは偶然ではない。ポピュリズム党はおしなべてそうであるように、「ドイツのための選択肢」も冷遇されていると感じている層を利用することに長けているのだ。また、東側では難民への反感がより大きいことも驚くにはあたらない。2015年以降ドイツに来た難民に対するものと同じ特権や補助金が東側の人々には与えられていないようで、大勢がそのことに反感を抱いている。経済的に恵まれていないと感じているそれらの人々は、難民とは違って自分たちはドイツ人なのだからと感じている。外国人嫌悪に基づく考え方は何があっても正当化されるものではないが、この考え方はいまだに一般的である。

だが、出世した例も存在する。アンゲラ・メルケル首相は東ドイツの牧師の娘であり、ヨアヒム・ガウク前大統領は自身が東ドイツの牧師だ。実際、東ドイツのプロテスタントの聖職者たちは賢明かつ静かに、しかし断固として圧政に反対していた。ガウク大統領とメルケル首相はそうした伝統に出自を持っているのだ。

高揚感というものは通常、より冷静な感情に移行していき、高い期待に応えられない場合は反感へといたることもしばしばある。メルケル首相はベルリンの壁崩壊30周年を記念する演説で、東側と西側が経済的に互角になるには、50年かかるかもしれないと発言した。それにも一理あるが、東ドイツの平和的解体とそれに続いてのドイツ再統一は、それ自体が非常に大きな成功であるということを忘れてはならない。

ミッテラン大統領の見解もまた、間違っていたことが証明された。統一ドイツは欧州の平和と安定にとっての脅威にはほど遠い。それどころか、ドイツはソビエト連邦の崩壊とワルシャワ条約機構の廃止後、欧州が平和的に新体制へと移行できるようにするために重要な役割を果たした。また、国際舞台でもEU内でも、ドイツは世の中のためになる力となっている。英国の離脱問題を抱えるEUにとっては特に重要な存在だ。

歴史的激変は、常に勝ち組と負け組を生み出すものだ。しかし全体として見れば、やはり現在の民主的な統一ドイツとなってよかったと言えるだろう。

  • コーネリア・マイヤーはビジネスコンサルタント、マクロ経済学者、エネルギーの専門家である。ツイッター:@MeyerResources
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