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メッカの致命的火災が15人の女学生を殺した時

国内と周囲のイスラム世界に衝撃を与えたこの悲劇は、サウジアラビア国家と国民、そして宗教警察の関係における、転換点だった。(マグナム・フォト)
国内と周囲のイスラム世界に衝撃を与えたこの悲劇は、サウジアラビア国家と国民、そして宗教警察の関係における、転換点だった。(マグナム・フォト)
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22 May 2020 09:05:18 GMT9
22 May 2020 09:05:18 GMT9

マハ・アキール

宗教警察が救出作業を妨害したことによる悲惨な死が報じられ、引き起こされた激しい怒りは結果的に彼らの権力縮小を招いた

概要:

2002311日、15人の若い女性がメッカの学校で起こった火災により命を落とした。宗教警察が民間防衛隊員の消火活動を阻み、建物から逃げようとした女学生たちを止めたのだ。彼女たちはアバヤと呼ばれるヘッドスカーフを身に付けていなかった、というのがその理由だ。

国内と周囲のイスラム世界に衝撃を与えたこの悲劇は、サウジアラビア国家と国民、そして勧善懲悪委員会(Committee for the Promotion of Virtue and the Prevention of Vice)の名でも知られる宗教警察の関係における、転換点だった。

同委員会は1940年に政府機関として発足したが、イラン革命と宗教的過激派によるメッカの大モスク占領に続き、1979年により過激な組織へと再編成された。しかし件の悲劇以来、その権力の大半が次第にはぎ取られてきている。

かつて通りでよく見られた委員会員やボランティアは、今ではほとんど目にすることがない。ビジョン2030が概略を示す改革の恩恵を受けているサウジアラビアは、急速な近代化を遂げている。そしてムハンマド・ビン・サルマーン皇太子指揮の下、より穏やかなイスラムの教えへ立ち戻ろうとしているのだ。

ジッダ:2002年3月にメッカの女学校で起こった15人の女生徒たちの悲劇的な死は、不名誉な記憶として我々の中に永遠に残るだろう。何の罪もない数多の少女たちの命が失われたというだけでなく、彼女たちの死と、それに関する状況のためだ。

事件にはサウジアラビアのいわゆる宗教警察、一般的には「ハヤー」として知られる勧善懲悪委員会の関与が報告されている。彼らは、女子生徒たちがアバヤとヘッドスカーフを纏っていなかったことを理由に火をあげる建物から彼女たちが避難するのを止め、救助隊員が入ろうとするのを妨害した。

宗教警察の行為は、国内と海外の両方で激しい憤りと非難を引き起こした。政府による調査は、学校での火災時の安全確保を怠った教育当局に責任があると結論を下した。だが目撃者や民間防衛隊員の証言にも関わらず、宗教警察の行為が死の一因となった、という非難の声は認めなかった。

それでもなお、宗教警察への大衆の怒りと批判に起因して、女学校を運営し保守派聖職者に管理されていたGeneral Presidency for Girls’ Educationは解体された。

同校を昨日訪問したアラブニュースの一団は、多数のアバヤ(黒いガウン)、靴、鞄を発見した。火事の発生後に建物を出ようと急いだ少女たちが残したものだ。

2002年3月12日のアラブニュース掲載レポートより

メッカの第31番中学校(13歳から15歳の女子生徒が通う)での火事は、2002年3月11日に始まった。公式調査によれば、火元となったのは最上階の部屋で放置されたタバコだ。喫茶室のストーブで発生した電気ショートが原因だったと主張する者もいる。火は急速に広がり、女生徒たちはパニックに陥った。そして3階建ての建物の狭い吹き抜け階段へ殺到し、階段の崩落により大半がそこで死亡した。この悲劇で少女15名が亡くなり、50名以上が怪我を負った。賃貸されていたこの設備不十分な物件は、800名以上の生徒と50名ほどの教師で過密状態だった。調査では、同校における消火器、警報、非常階段および出口の不足が明らかになった。その上に窓は、全ての女学校でそうであるように鉄格子に覆われ、開くことができなかった。それは、起こるべくして起こった惨事だったのだ。

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この恐ろしい出来事には、その他多くの要因があった。目撃者によれば同校の正門は男性警備員によって施錠されており、その警備員は火災発生時にその場にいなかった。消防隊員が現場へ到着するも、出迎えたのは宗教警察のメンバー(彼らは通常、女子生徒や女性職員が出入りの際に適切な衣類で肌を覆っていることを監視するため、女学校の周囲を歩き回っていた)だった。女生徒たちが肌を覆っていなかったため、彼らは誰も逃げられず建物へ入ることができないよう妨害していた。女生徒たちは呼吸困難に陥り、助けを求めて叫び、お互いを踏みつけ合っていた。一般警察が介入して消防隊員が現場へ入れるようになるまでに、貴重な時間が過ぎていった。

消防隊員が学校に到着すると、宗教警察のメンバーが学校への出入りを妨害していた。女生徒たちが肌を覆っていなかったためだ。

マハ・アキール

その建物は居住用から学校へと転用され、1990年から賃貸されていた。そのような物件全てがそうであるように、ここも学校としては適さない建物だった。賃借していたのは、General Presidency for Girls’ Educationだ。同組織は当時、ほとんどの女学校の賃貸を行っていた。建物の大半において部屋数は少なく、トイレはわずかで、階段は狭く、校庭は小さく埃っぽいものだった。きちんとした科学実験室や十分な数のコンピューター、アートの授業はなかった。そして最も重要なことに、安全対策が不足していた。賃貸物件の学校としての利用数は近年減少し、設備の評価とモニタリングは改善されている。しかし残念ながら、未だ完全に無くなってはいないのだ。

この悲劇的なストーリーは、汚職、放置され荒れ果てた施設、そして宗教組織に注意を向けさせた。地元メディアでは世論の稀な批判が沸き起こり、結果として政府は、General Presidency for Girls’ Education(1960年の初の女学校開校時に発足した政府の自治機関)の解体を決定。そして男子校の運営も行っていた教育省に、女学校の運営責任を課した。



2002年3月12日のニュースを表示しているアラブニュースのアーカイブページ。

宗教警察は、公共の場では長期に渡り恐れられていた。それは彼らが言うところの、「美徳を奨励し悪行を防ぐ」行為のためではない。主にはハラスメント、暴行や恣意的逮捕のせいだ。それらは顔を隠していない、きちんとしたアバヤを着用していない、などの些細な理由で特に女性に対し行われた。メッカの大モスクでさえ、彼らは女性をじろじろと見、顔を隠すよう命令したものだ。彼らは自らを法とした。彼ら自身の偏狭な解釈と力の誇示のために、宗教と全く関係のない日常生活のあらゆる側面に制限を課した。そしてドレスコードや性差別、祈祷休憩を強制するために公共の場を巡回した。

2016年、数年の間に数件の死傷事件を出していた宗教警察の暴力行為に対し高まる不満に応えて、政府は彼らの権限を一部削減した。これにより、宗教警察による容疑者の拘束や追跡、尋問は認められなくなった。彼らは「親切かつ穏やかに」振る舞い、法執行官が必要な措置を取れるよう疑わしい活動のみを報告するように求められた。

現在、彼らが公共の場で見られることはほとんどない。運転など、女性は新たな権利を得ている。性差別の障壁は取り除かれ、そして国家は彼らが全面的に異議を唱えたエンターテイメントを活発に迎え入れようとしている。割り当てられた機能を除けば、宗教警察の役割はもうほとんど残っていないのだ。

  • マハ・アキールはジッダを拠点とするサウジ人作家。Twitter@MahaAkeel1
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