マフムード・アーマド、リヤド
サウジアラビアにおける 2 度目の爆破攻撃もまたイランの影響力の兆候であった
概要:
1996 年 6 月 25 日夜遅く、サウジアラビア東部の都市アルホバルでタンクローリーに積まれた爆弾が8 階建の集合住宅の正面を吹き飛ばし、米空軍兵士 19 名およびサウジアラビア人 1 名が殺害された。またアメリカ人 370 名以上が負傷した。
ホバル・タワー開発区域の建物番号 131 番は、第一次湾岸戦争後のイラク南部の飛行禁止空域を監視する多国籍軍の居住区域として使われていた。親イラン勢力ヒズボラのサウジアラビア支部が犯行に関わっていることはすぐに明らかになった。またこの攻撃によってイランがテロを支援しており、地域全体にとって脅威であることが証明された。.
攻撃の日からほぼ 5 年後、米国の大陪審が個人 14 名を殺人などの罪で起訴したが、司法長官ジョン・アシュクロフトは、犯行は「イラン政府の要人が構想、支援、監督した」ことに疑いの余地は無い、と述べた。
1996 年 6 月 25 日は建物と共に信頼が崩壊した日だった。築き上げられつつあった友好関係に亀裂が生じた日だ。 1991 年のクエート解放以後に設けられた、イラク南部の飛行禁止空域を監視する多国籍軍兵士が居住するアルホバルにある住宅タワーが爆破攻撃された日である。多くのことが変わった日だった。
アルホバルの米軍兵士居住区域で巨大なトラック爆弾が爆発し、 兵士 19 名とサウジアラビア国籍の民間人 1 名が死亡。
バージニア州の連邦大陪審によって、サウジアラビア人 13 名とレバノン人 1 名がテロ行為で起訴される。
サウジアラビアが自国民の犯人 13 名の内 11 名を逮捕し、彼らはサウジ王国で裁判にかけられる、と発表。
連邦判事が爆破事件の責任はイランにあると判断し、死亡したアメリカ人の家族に対して 2 億 5,400 万米ドルの賠償を命じる。
爆破事件の首謀者とされるアーメド・アル=ムガシルがベイルートで逮捕され、サウジ当局に引き渡される。
米国の別の連邦裁判所がイランに対して、負傷した 15 名の被害者への1 億470 万米ドルの賠償を命じる。
オクラホマの爆破事件が起きた時、私はボストンで英語を学んでいた。当時最初に報道されたのは爆破事件の日にオクラホマから飛行機で渡航したヨルダン系アメリカ人が逮捕されたニュースだった。登校に利用していた地下鉄に乗っている間に、人々から受けた猜疑の眼差しを今でも覚えている。
実際に暴力や言葉を使って攻撃されることはなかったが、その眼差しは痛かったし不信感は顕著であった。その後ティモシー・マクベイとテリー・ニコルズが逮捕されたことで私たち中東出身の学生たちは安堵したものだ。その後私は同じような感情をアルホバル・タワー爆破事件の際にも感じ、2001 年 9 月 11 日の同時多発テロ事件直後のそれはさらに酷いものであった。
「目が眩むほどの閃光直後に爆発が起きた、と住民たちは証言した。イスカンの複合施設からおよそ 25 km 離れたはるかペトロミン区域でも閃光が見え、雷のような爆発音が聞こえた。」
サイード・ハイデルが執筆した 1996 年 6 月 27 日付のアラブ・ニュースの記事より
アルホバルの爆破事件が起きたあと、これが実際には起きていないことであるかのような不思議な感覚に私は襲われた。同時に私たちの多くは、なぜこのようなことが起きるのかが理解出来ない人々の疑問に答えなければならなかった。そして責任を問う声から逃れる術は無かった。アメリカ人が標的とされ、そのことは今回が初めてのことではなかったのだが、今回は場所が違った。サウジアラビアで起きたからだ。
その頃私はデトロイトの街に移り住んでいた。 Twitter やソーシャルメディアはまだ存在せず、攻撃に関する新しい情報を素早く手に入れることは出来なかった。インターネット自体がまだ新しい物であった。テレビのアラビア語チャンネルも当時は無かった。アメリカの新聞で読み、アメリカのテレビ番組で観るものが私たちにとっての唯一の情報源だった。事件に関するその他の情報は、自国にいる家族と話をした友人たちから耳にする程度だった。
この不穏な時期、イランやサウジアラビアを地図上で見つけることができないような大学の友人たちから多くの質問をぶつけられた。大抵の場合、私の答えは相手を満足させるものではなかった。大学の歴史科の講師に言われた言葉をいまだに覚えている。彼は笑顔でこう言った。「私たちが君たちを守る時に君たちは私たちを殺すのだ」
私たちが生きた 1991 年の湾岸戦争後の時代は多くの変革を目の当たりにする時だった。サウジアラビアでの米軍駐留は、二聖都の地におけるその存在を布告無しの侵略、と捉える社会の一部の勢力にとっては歓迎されないものであった。こうした捉え方は、米軍の撤退と米軍基地の閉鎖を主張することを決してやめない多くの著名な聖職者たちの説法のカセットテープによって広く喧伝された。
多くのアメリカ人の友人と同様、アルホバルでの攻撃に対する私の第一印象はヘイトスピーチに影響されたテロリストたちによるものだろう、であった。しかしその後、間接的にイランの後ろ盾があったことが明らかになった。サウジアラビアの不安定化を目論む企みが捜査によって徐々に明らかになった。
私にとってこれは驚くことではなかった。1979 年に最高指導者アリー・ホメイニーが権力を掌握して以降、イラン政府は常にサウジアラビアの不安定化を目的としていたこと知っていたからだ。
この政権の主な目的は、周辺諸国の代理勢力を通じてそのイデオロギーを広めることにあった。当時私が最も恐れていたことは、サウジアラビアにおけるそうした代理勢力であり、攻撃の犯行声明を出したヒズボラ・アル=へジャズを通じてイラン政府がそれに成功することであった。