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ウサーマ・ビン・ラーディンの死

2011年5月2日、米国特殊部隊がパキスタン北東アボッターバード市の塀で囲まれた邸宅を急襲し、 アルカイーダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンを射殺した。(ゲッティイメージズ)
2011年5月2日、米国特殊部隊がパキスタン北東アボッターバード市の塀で囲まれた邸宅を急襲し、 アルカイーダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンを射殺した。(ゲッティイメージズ)
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11 May 2020 01:05:58 GMT9
11 May 2020 01:05:58 GMT9

ベーカー・アトヤニ

  • 我々の東南アジア局長は、米国特殊部隊による捕獲のかなり前に、世界最重要指名手配犯を、インタビューしていた。

要約:

2011年5月2日、米軍特殊部隊チームが、パキスタン北東アボッターバード市にある、塀で囲まれた邸宅を急襲し、 アルカイーダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンを射殺した。

この深夜に行われた軍事作戦により、10年間に及んだ、2001年9月11日の米国同時多発テロ事件やその他多数のテロリストによる暴動を首謀していた、世界最重要指名手配犯の捕獲作戦は幕を閉じた。

翌日、アラブニュースは社説でイスラム世界の“呪縛からの解放”を祝った。紙面は、ビン・ラーディンと彼の“倒錯したイスラム世界観”がその宗教を“何百万もの人々にとって、恐ろしいもの、嫌悪するもの”にしたとし、“イスラム嫌悪という世界的な潮流”の大部分について責任を負っていたと言明した。

ドバイ: 背の高い、痩せた男は、青みがかった灰色の、足首までの長さのトーブと、鮮やかな白いターバンを身に着け、AK-74 のアサルトライフルを胸の近くに持っていた。私が部屋に入り、彼が進み出て私を抱擁した時、この瞬間の重大さをようやく悟った。私は世界最重要指名手配犯ウサーマ・ビン・ラーディンと向かい合っていた。

私は自分のキャリアの大部分である、年十年も、ビン・ラーディンと、彼が多国籍の武装勢力の輸出機構として作り上げたアルカイーダ過激派組織について考え、書いてきた。

主要な日付

  • 1

    ウサーマ・ビン・ラーディン、裕福なサウジアラビア人実業家の息子、 アルカイーダを結成、ソ連軍の侵攻に抵抗するアフガニスタンを支援。

    Timeline Image 1988年
  • 2

    サウジアラビア政府、イスラム過激派の支援をするビン・ラーディンの国籍を剥奪。

  • 3

    ビン・ラーディン、米軍のアラビア半島からの駆逐、サウジアラビア政府打倒のジハードを宣言。

  • 4

    アルカイーダによる、タンザニアとケニアの米国大使館同時トラック爆破テロが、200名を殺害。FBIがビン・ラーディンを最重要指名手配犯とする。

    Timeline Image 1998年8月7日
  • 5

    ビン・ラーディンを首謀者とする米国同時多発テロが、約3,000名を殺害。

    Timeline Image 2001年9月11日
  • 6

    米軍がアフガニスタン東部トラボラ渓谷のアルカイーダの洞窟とトンネルを攻撃するも、ビン・ラーディンは脱出。

  • 7

    米海軍特殊部隊が、現地時間午前1時少し過ぎに、パキスタンのアボッターバードのビン・ラーディン潜伏場所を急襲。

    Timeline Image 2011年5月2日

そして今、2001年6月21日、私は、アフガニスタン南部、厳重に守られた、泥の壁に囲まれた潜伏場所にいた。それはアルカイーダとその創始者の名を世界の隅々にまで広めた、2001年9月11日に起きた、ワールドトレードセンタと米国国防総省に対する攻撃の3ヵ月前弱のことだった。

私はその時、ロンドンを拠点とするMiddle East Broadcasting Centerのアジア方面特派員であり、アフガニスタンでのビン・ラーディンとの面会の3ヵ月前に、電話による招待を受けていた。それで、私達がその夏の午後、床のマットレスに腰を下ろした時、私の最初の質問は、なぜ彼が私にインタビューの許可を与えたのか、そして私を通じてどのようなメッセージを世界に送りたいのかだった。

その少し前、ビン・ラーディンは “限られたコメント”しか話さないと言っていた。それは、彼をアフガニスタンで庇護しているタリバンによって、メディアに対して話すことを制限させられているためだった。タリバンは、ビン・ラーディンの援助の力に大きく依存することで、戦争によって荒廃した国で台頭し、返礼として彼に避難場所を提供していた。

代わりに、部屋にいた彼の側近が、3時間に及んだ会合の大部分の会話をした。その中の重要な人物に、アルカイーダの軍事指導者ムハンマド・アーティフ(別名アブー・ハフス)、今では国境を越えた軍事組織の残党を率いているアイマン・ザワーヒリー、そしてファーストネームだけを明かした、私によるインタビューのための調整任務を担当したオスマンがいた。

オバマ大統領は、遺体は迅速な埋葬が必要とされるイスラムの慣習に従い、取り扱われたと語り、後に米国国防総省は、遺体は、空母カール・ヴィンソンに乗せられ、その洗浄を含め、イスラムの教義を順守し、北アラビア海に水葬させられた、と述べた

アズハル・マスードによるアラブニューストップページの記事から

“今後数週間のうちに、大いに驚くべきことが起こるだろう。我々は米国とイスラエルの軍事施設を攻撃するつもりだ”とアブー・ハフスは言った。 “米国で棺関連の仕事が増えるだろう。”

私はビン・ラーディンを見て、それは本当なのかと聞いた。彼は笑みを浮かべ、頷いた。

翌月、ワシントンポスト紙のパメラ・コンスタブルとのインタビューで、私は次の事を何度も繰り返し言ったものだった。“彼らは今後数週間のうちに米国とイスラエルの施設を攻撃するだろうと言いました。私はそのことについて100パーセント確かではありませんが、間違いなく明らかなことは、彼らは、そのメッセージを聞かせるために私を呼んだのです。”

2か月後、9月11日に起きた攻撃が、ビン・ラーディンの恐ろしいメッセージが、まさしく真実であったことを証明した。

インタビューが終わった時、ビン・ラーディンの個人写真家が、私達の写真を撮り、ザワーヒリーとアルカイーダの創始者と一緒にいる、私の映像を撮影した。ビン・ラーディンは、私をまたインタビューに呼ぶだろうと言った。

アラブニュースアーカイブからの1ページ

“もし何か大きなことが起こったら、私はパキスタンの部族地帯に隠れるだろう”と、私と握手し、部屋を去り際に、ビン・ラーディンは言った。“また私にインタビューをするならそこが場所になるだろう。”

10年後の2011年5月2日の午前4時、カブールにいた記者が、ビン・ラーディンがパキスタンで米国軍の急襲により殺害された噂を聞いたかどうか、テキストメッセージを送ってきた時、私はイスラマバード空港でドバイ行きの便に搭乗する準備をしていた。その数時間前、パキスタン人の記者が、軍事施設のあるアボッターバード市で起こったヘリコプターの墜落事故についてテキストメッセージを送ってきていた。2つの出来事に関連があるのではないかと思い、また、記者の直勘に従い、私は航空会社の担当者がいる場所に向かい、彼に私が記者であること、荷物を飛行機から降ろしてもらうために、彼の助けが必要であることを伝えた。その男はビン・ラーディンが死亡したかもしれないという情報に興奮し、手をとって私を入国管理へ引き返しに連れて行き、同僚に、私のことを、現代史上、最も大きなニュースの一つを報道しなければならない人間なので、彼を助けるようにと伝えた。

そして今、2001621日、私は、アフガニスタン南部、厳重に守られた、泥の壁に囲まれた潜伏場所にいた。それは2001911日のワールドトレードセンタと米国国防総省に対する攻撃の3ヵ月前弱だった。

ベーカー・アトヤニ

空港から、私はパキスタンの首都であるイスラマバードから北へ50キロのアボッターバードに直接向かい、午前9時に到着した。その時までには、興奮した記者の大集団が、ビン・ラーディンが何年も潜んでいた邸宅の近くに集まっていた。パキスタンの警備兵により、邸宅へ立ち入ることはできなかった。

その間に、米国のバラク・オバマ大統領が、ビン・ラーディンがアボッターバード市で、米国特殊部隊の夜襲により殺害されたと発表した。そこは、ビン・ラーディンが私にアフガニスタンから逃げた後に隠れると伝えた部族地帯からさほど離れていない場所だった。それにより、10年に及ぶ、21世紀のテロリズムの脅威を再定義した人物の捕獲作戦は終わった。

今まで、米政府は急襲の詳細をほとんど開示してこなかった。一握りの政府高官、軍当局者と作戦を実行した海軍特殊部隊の、ごく少数の人々だけが、5月2日の出来事に関与しており、米国政府は急襲に関する多くの書類を機密扱いにした。また、エリートパキスタン軍士官学校の至近距離にある邸宅に、ビン・ラーディンの潜伏を認めた、パキスタン政府の任務に関する疑問も残されている。

時代が進むにつれて、私はよくビン・ラーディンの砂漠の潜伏場所での会合のこと、そして彼の死後、米軍の絶え間ない攻撃による、アルカイーダ集団の空洞化、そしてダーイシュの台頭を彼は予見できていただろうかと考える。 また、もし私達がまた会っていたとしたら、さらに何を彼は私に語っていただろうかということも考える。

実際に、2001年11月、米国同時多発テロから2か月も経たない間に、ビン・ラーディンの後方支援業務の側近、オスマンが、 “その人物”が私とまた会う準備があることを電話してきていた。

“来られるか”と彼は聞いてきた。

私はもう二度とオスマンに連絡することはなかった。そして私のビン・ラーディンとの会合は米国同時多発テロ以前に彼が会い、記者にインタビューを許可したと知られる最後のものとなったままである。

  • ベーカーアトヤニ、アラブニュース東南アジア局長、は米国同時多発テロの3ヵ月前にウサーマ・ビン・ラーディンにインタビューをしていた。
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