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サダト大統領がイスラエルへ行ったとき

1977年11月19日にアンワル・サダト・エジプト大統領は、イスラエルを訪れた初めてのアラブ首脳となった。(ゲッティイメージズ)
1977年11月19日にアンワル・サダト・エジプト大統領は、イスラエルを訪れた初めてのアラブ首脳となった。(ゲッティイメージズ)
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15 Jun 2020 09:06:29 GMT9
15 Jun 2020 09:06:29 GMT9

ハニ・ハザイメ

イスラエルを訪問した初のアラブ首脳として、サダト・エジプト大統領は平和のために取り組んだが、それは中東地域を激怒させた

概要:

1977年11月19日にアンワル・サダト・エジプト大統領は、イスラエル建国以来30年間争いが続いていた両国間に永続的な平和をもたらすべく、初めてイスラエルを訪れるアラブ首脳となった。

そのわずか4年前には、サダト大統領はエジプト軍にシナイ半島侵攻を命じてアラブ・イスラエル戦争の引き金を引いた。しかし11月20日に、彼とメナヘム・ベギン・イスラエル首相はエルサレムで共同記者会見を開き、両国間の戦争の終焉を発表し、中東の平和に向けて取り組むことを誓った。

その会見が、1978年9月のキャンプ・デービッド合意への足掛かりとなり、1979年3月のワシントンでのエジプト・イスラエル平和条約調印への道を開いた。1978年10月に、サダト大統領とベギン首相はノーベル平和賞を授与された。

しかし1977年11月22日にアラブニュースが報じたように、この和平構想はパレスチナ人に対する裏切りとして多くのアラブ人を怒らせた。エジプトはアラブ連盟を追放され、1981年10月にカイロでの軍事パレード中に、サダト大統領は平和条約に反対する過激派に暗殺された。

ジッダ:私がエジプト大統領アンワル・サダト氏について初めて聞き及んだのは、1979年のことだが、残念ながらそれは愉快な機会ではなかった。それは彼がアラブ諸国の敵国であったイスラエルとの和平を決断し、イスラエル首脳陣と席に着いて後にキャンプ・デービッド合意として知られる平和条約に調印すべく単独で行動を起こしたときだった。

当時、ヨルダン・ザルカ市の私が住んでいた近所のパン屋には、ひとりのエジプト人男性が働いていた。13歳の私は当然、平和条約が何なのかも知らなかったし政治にも興味がなかったため、その意味は分かっていなかった。私に分かったのはただ、地域の人々が通りで叫んだりわめいたりし始めたということだった。「サダトは裏切り者だ」と。

身内の年長者たちの後を追って私はエジプト人のパン屋のところへ走っていき、彼の顔に向かって「サダトは裏切り者だ」と叫んだ。その言葉の意味すらも分からずに。しかし大人になるにつれ、問題を認識するようになった。特に故国ヨルダンは、アラブ・イスラエル紛争やパレスチナの大義に直接関わっていたし、イスラエルによるパレスチナ占領の影響はヨルダンのみならず中東全地域で非常に深刻になっていたからだ。

 

年表:

  • 1

    サダト大統領が訪問の意思を発表した後、メナヘム・ベギン・イスラエル首相がエルサレムからエジプト人民に対して、「戦争はもうよそう、流血はもうよそう」と呼びかける。

    Timeline Image 1977年11月11日:
  • 2

    サダト大統領がアラブ首脳として初めてイスラエルを訪れ、議会で演説する。「今日我々の前に……平和へのチャンスが存在している……もしこれを失ったり逃したりすれば、その筋を書く者たちが人類を呪い歴史を呪うことになるであろうチャンスなのだ」

    Timeline Image 1977年11月19日:
  • 3

    ジミー・カーター米大統領の招きで、サダト大統領とベギン首相がキャンプ・デービッドへ10日間の話し合いに訪れる。

    Timeline Image 1978年9月5日:
  • 4

    ベギン首相とサダト大統領がホワイトハウスで枠組みに署名する。

    Timeline Image 1978年9月17日:
  • 5

    サダト大統領とベギン首相がともにノーベル平和賞を授与される。

    Timeline Image 1978年10月27日:
  • 6

    サダト大統領とベギン首相がワシントンで、エジプト・イスラエル平和条約に調印する。

    Timeline Image 1979年3月26日:
  • 7

    サダト大統領が、平和条約に反対するイスラム過激派にカイロで暗殺される。

サダト大統領の遺したものについて多くの記事を読み、何が彼のイデオロギーを形成したのかを理解しようとした。彼はいまだに中東では評価が分かれている人物だ。指導者として称賛され、裏切り者として罵られる。1981年に起きた彼の死も、時間の経過も、彼という人物や彼の残したものについて進行中の論争を決着させてはいない。

「エジプトとイスラエルは30年間に4度交戦してきたが、月曜日に、交渉による和平調停締結を目指すという前例のない合意で戦争を終結させるべく、口頭による相互約束を交わした。アラブ首脳が初めてイスラエルを訪問するという歴史的事件のクライマックスにおいて、アンワル・サダト・エジプト大統領とメナヘム・ビギン・イスラエル首相は、それぞれアラブ・イスラエル和平の希望を促進させる宣言をした。」

1977年11月22日のアラブニュース第1面の記事より

サダト氏に関する論議は、彼のもっと大胆な動きに関しても起きている。イスラエルは1967年のアラブ・イスラエル戦争でエジプトのシナイ半島を占領した後に、スエズ運河の東岸沿いに一連の要塞であるバーレブ・ラインを構築したが、1973年10月6日にエジプト軍がそれを越えて侵攻したのだ。

バーレブ・ラインの劇的な突破は、1967年の敗戦で自信を失っていたエジプト国家に感動を与えた。エジプト軍はその奇襲的要素が過ぎてからはそれほど優勢を保てずに戦争は7週間激しく続いたのだが、それまで25年間エジプトの仇敵であった国家に対して一時的にでも優位に立ったことで、サダト大統領の国内での統率力は強化された。

彼は優秀な戦略家と見られていた。イスラエルに対するその限定的な戦いにより、スエズ運河の支配をエジプト人が取り戻すという結果につながったからであり、それはエジプト軍が今日に至るまで現代という時代における最も重要な勝利と捉えている戦いなのだ。

しかし、サダト氏の世界舞台への登場は、彼のエジプト国内における政治的成功に依然として結びついていた。彼はエジプト国家の社会主義的特徴の多くを廃止したが、それをすることで西側首脳陣に自身の誠意を印象づけ、敵を弱体化させ、友人を豊かにした。米国の仲介によるイスラエルとの和平交渉中に何度もサダト大統領は、自身の「代替」策の極秘コピーを米国大統領にこっそりと渡した。

サダト大統領はまた、象徴を巧みに使うそのやり方を国際関係にも適用させた。彼のエルサレム行き決断の効果は驚異的であり、1977年11月19日に彼がイスラエルの地に足を踏み入れたことで、アラブ・イスラエル紛争の性質は決定的に変化した。イスラエル人たちが何十年も要求してきた正当性を認めるという意思表示ひとつで、同時に、エジプトが戦争で失った土地を回復するのに助力するという約束を米国から取り付けたのだ。

サダト大統領は、和平への勇気ある躍進で常に記憶されることにはなろうが、彼が最終的に何を残したかは依然として不明瞭だ。彼が着手した交渉はアラブ・イスラエル紛争の終結という結果には至っておらず、豊かなエジプトを作り上げてもいない。

ハニ・ハザイメ

エルサレムを訪れてイスラエル議会で演説するというサダト大統領の一方的な決断は、確実に彼の人生の最もドラマチックな出来事だ。それはアラブ諸国で広く受け入られていた2つの外交的原則を完全に無視するものだった。まずは、イスラエルがアラブの土地の占領を続ける限り、イスラエルと直接交渉するべきではないという原則。もうひとつは、もし交渉するにしても、単独ではなくアラブ諸国全体として交渉すべきという原則だ。

サダト大統領はこのルールを破った最初のアラブ首脳であり、そうすることによってアラブ首脳陣のみならず、アラブ人民の怒りを買った。人民たちは集団で通りに繰り出し、彼をアラブの総意の裏切り者と糾弾した。彼の決定がドラマチックだったのは、それが中東をがらりと変化させてしまったからだけでなく、それが究極の信念からくる行為だったからでもある。

彼は、イスラエルの承認という一番のカードを使うことに決めたのだ。米国、そしてとりわけジミー・カーター大統領が、彼の努力を無駄にさせるわけがないという強い自信からそうしたのだ。サダト大統領とカーター大統領の互いに対する信頼が、たったワンセットの会合を持っただけで強くなったことを考えれば、この意思表示はより印象的なものだと考えることができる。

1977年11月22日のアラブニュース・アーカイブからの1ページ。

サダト大統領は、和平への勇気ある躍進で常に記憶されることにはなろうが、彼が最終的に何を残したかは依然として不明瞭だ。彼が着手した交渉はアラブ・イスラエル紛争の終結という結果には至っておらず、豊かなエジプトを作り上げてもいない。

しかし、サダト大統領の政治的手腕が国家に巨大な利益をもたらしたことは覚えておく価値がある。エジプトの東側国境は現在平和であり、いかなる方向からの深刻な軍事的脅威にも直面していない。ここ20年間で何百億ドルという米国の援助を受けており、それは軍の現代化や国家インフラの徹底的改善に使われてきた。

エジプトでは今や小さな村でさえ電気が通っており、エジプト国内ではそれは、米国よりもサダト大統領の功績として見られている。エジプトはまた、アラブ世界や地域をリードする国家としても浮上してきている。

ソビエト連邦の方を向いて崩壊しかけていたエジプト国家の内向き経済に直面して、サダト大統領は国家繁栄のための基礎を敷設したのであり、その繁栄はまだ到来していないだけなのだ。彼は真に国家を導いたのであり、おそらく彼は、自分が導いた国民よりもはるか先を行っていたことがその悲劇だったといえるのだ。

  • ハニ・ハザイメ氏はアラブニュースの編集主任であり、サダト大領のことを初めて聞き及んだのはヨルダンで暮していた10代の頃だった。
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