アブデッラティフ・エル・メナウィ
まとめ:
2011年2月11日、元空軍士官で1981年のアンワル・サダト大統領暗殺に成功してから30年にわたる長期政権を維持したホスニー・ムバラク大統領は、政権の横暴と腐敗に対する抗議活動の拡大を受け、遂に退陣した。
その翌日Arab Newsは、「30年間の支配に対する恨みの深さを最後まで理解できなかったように見えた」男の陥落に、「タハリール広場の上空には花火が上がり、エジプト全体が喜びと安堵の涙に溢れた」と伝えた。
主にソーシャルメディアを通して組織され、世界中の何百万もの人々が生中継で見守った勝利のデモは、エジプトの政治を根本的に覆したが、それには犠牲も伴った。18日間続いた「1月25日革命」では、少なくとも846人が命を落とし、けが人は何千人にも上った。
歴史において、私たちが足を止めて長い間考えなければならないような大きな出来事がある。何が起こったのかを理解し、そこから教訓を学び、同じ過ちを繰り返さないよう努め、何が正しかったのかを見出す必要がある。エジプトのホスニー・ムバラク大統領が退陣した2011年2月11日は、それに当てはまる。
その日、私はムバラク政権内で国営メディアを担当していた。政治的な役割には関わっていなかったものの、国の職員として仕事を任されていた。同時に、私の友人の多くがタハリール広場で信念のために抗議活動を行っていた。
それはエジプトの歴史に残る日となり、現在の私たちの生活条件は、その結果である。国にとっては大きな転機となったが、それが好転だったのか悪化をもたらしたのかは、歴史のみが決められる。重要なのは、変化が起こったということだ。
私はこの日のことをいつまでも忘れないだろう。朝、街は前夜のムバラク大統領の演説に不満を持ち、怒りを露わにした抗議者らで溢れていた。その演説で、ムバラク大統領は権限をオマル・スレイマンに移譲する意向を表明した。それが大統領にとって最後の日であることは分かったが、詳細はまだ見えていなかった。
その日の朝、軍のある幹部から電話があり、ムバラク大統領の辞任表明に関するニュースを間もなく公表しなければならないと知らされた。私はすぐ、いくつかのメディアネットワークに連絡し、ニュースを伝えた。それを報道したメディアもあれば、あえて報道しなかったメディアもあった。大統領は正午にヘリコプターで大統領府からカイロの東にあるエル・ヌーザ(アレクサンドリア国際)空港に行き、そこから大統領専用機でシャルム・エル・シェイクの別荘へ向かった。
警察の暴行を機にエジプト全体で抗議活動が発生。これが「反乱の日」となり、抗議者らがホスニー・ムバラク大統領の辞任を求める。
ムバラク大統領がテレビ演説で自身の退陣を否定し、「残りの任期で国民の要求に応える」と述べ、抗議活動がさらに白熱。
ムバラク大統領が改めて辞任を否定し、一部の権限のみをオマル・スレイマン副大統領に委任すると述べる。
スレイマン副大統領がムバラク大統領の辞任と、軍の最高評議会への権限委任を発表。
ムバラク元大統領が平和的抗議の参加者の殺人容疑で裁判を命じられる。
イスラム系保守派でムスリム同胞団候補者のムハンマド・ムルシ―氏が大統領に選出される。
ムバラク元大統領の裁判が始まり、2人の息子が汚職とデモ参加者の謀殺で起訴された。
ムバラク元大統領が、デモ参加者の殺人を止めなかったとして終身刑を言い渡される。
控訴裁判所が終身刑を覆し、再審を命じる。
2年間の勾留の後、裁判所がムバラク元大統領の釈放を命じ、自宅監禁となる。
アブドルファッターフ・アッ=シーシー元国軍司令官が選挙で圧勝し、大統領に就任。
ムバラク元大統領と息子らが横領で有罪判決を受け、それぞれ3年と4年の禁固刑を言い渡される。
最高裁のやり直し裁判で、ムバラク元大統領のデモ隊謀殺容疑に無罪判決が下される。
ムバラク元大統領、6年間の拘束を経て88歳で自由の身となる。
ムバラク元大統領(91歳)、カイロにて死去。アッ=シーシー大統領の命令で完全な軍葬のもと、埋葬された。
暴動が始まってからムバラク大統領が夫人と子供、また顧問すら同伴せず1人になったのは、これが初めてだった。午後1時半頃、別荘に到着してすぐに、彼はムハンマド・フセイン・タンターウィ国防相健国軍総司令官に連絡した。会話の中でムバラク大統領は、「フセイン、私はすべての権限を君と軍に委任すると決めた。決定権は君にある」と伝えた。これに対してタンターウィ氏は、「いいえ大統領、別の方法を考えましょう。これは私たちが望むことではありません」と答えた。しかし、ムバラク大統領は「これは私の決断だ。オマル・スレイマンと話して、このニュースを公表するための手配を進めてくれ」と頼んだ。
その数分後、軍の消息筋から私に電話があり、スレイマン副大統領が軍最高評議会と話し合いを進めていることを知った。彼らは、ムバラク大統領の辞任を国民に発表するための公式声明を準備していた。大統領から声明文は短くとの指示があったため、スレイマン副大統領とタンターウィ氏は、共同で作成することにしたのだ。大統領が軍のクーデターによって追放されたという印象を与えないため、スレイマン副大統領が声明文を読み上げることになった。
「国中が喜びに溢れている。人々は車から降りて抱擁し合いながら叫び、笑い、泣いている。エジプトは歓喜の渦に包まれている。」
2011年2月12日のArab News一面記事にあるソマヤ・ジャバルティ氏のコメント
それから約1時間後、軍のスポークスパーソンであるイスマイル・アトマン氏が私のオフィスに来た。挨拶をすると、彼はコートを開けてポケットから何かを取り出し、「これが声明文だ」、「これを放送するように命令されるまで、このテープを持ってここで待つ。今、(ムバラク大統領の息子の)ガマル、アラアとその家族の出発を待っているところだ」と言った。
私は不思議な気分だった。私たちは、文字通りその日世界最大となるニュースを持っていたのだ。何気ない会話をしながら、次のステージを待っていた。待っている間、アトマン氏は数分おきに評議会に電話をかけた。間もなく、ガマルとアラアは、空港で母親のスーザーンを待っていると知らされた。彼女がようやく空港に到着すると、アトマン氏は声明を放送するよう指示を受けた。そして私たちは2階下にあるスタジオに向かった。
私は不思議な気分だった。私たちは、文字通りその日世界最大となるニュースを持っていたのだ。
アブデッラティフ・エル・メナウィ
スタジオまでの移動には1分もかからなかったが、永遠のように感じられた。私たちはコントロールルームに入り、テープを機械に挿入して再生ボタンを押した。映像の長さは37秒だった。感情が押し寄せてきた。声明文はとてもシンプルだった。「最も慈悲深いアッラーの名において…国民の皆様、国がこのような困難な時を迎え、ムハンマド・ホスニー・ムバラク大統領は辞任することを決断し、国の統治を軍の最高評議会に委任しました。」
声明文が放送されると、国中にどよめきと興奮が広がった。しかしあの日から1年の間に、歓喜の声は疑問に変わり、その答えはいまだに出ていない。