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パレスチナの第1次インティファーダ

インティファーダが1991年マドリード和平会議および1993年オスロ合意に結びついた。(Getty Images)
インティファーダが1991年マドリード和平会議および1993年オスロ合意に結びついた。(Getty Images)
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02 Jun 2020 09:06:05 GMT9
02 Jun 2020 09:06:05 GMT9

ダウド・クッタブ

民族自決運動の中心にあるのは、非暴力抵抗運動である。

要約

1987年12月8日、ガザ地区のジャバーリーヤ難民キャンプで、イスラエルの兵士が運転していた戦車運搬車が車に衝突、パレスチナ人4人が死亡した。この事件がきっかけとなって、いわゆる第1次インティファーダが起こった。

12月9日に始まった一連の抗議行動は、非暴力的抵抗に基づくものが多かったが、占領地域で何年にもわたって続くイスラエルの弾圧に対する欲求不満や怒りが積もり積もって爆発したものだった。蜂起により、パレスチナ人2,000人、そしてイスラエル人200人以上の命が犠牲になった。

第1次インティファーダの結果として1991年のマドリード和平会議そして1993年のオスロ合意がもたらされ、この合意によりパレスチナ自治政府が設立されるとともに、パレスチナ解放機構(PLO)はイスラエルの生存権を承認することとなった。

だが、平和の達成は思ったほど容易ではなかった。2000年9月、イスラエルの野党党首であり後に首相となるアリエル・シャロン氏がイスラム教第3の聖地であるアル・アクサモスクに強行訪問したことをきっかけに、第2次インティファーダが始まった。

アンマン:インティファーダ(アラビア語で「振り落とす」の意)は、外国メディアの中東支局との仕事が多かった我々のような数多くのパレスチナ人ジャーナリストによって、英語の語彙に導入された。何が振り落とされていたかというと、それは占領下における生活の現状だった。

インティファーダが始まる前、私は若すぎて、自分のところに来た職の依頼を受け入れることができなかった。私が米国で経営学の学士号を取得していたことから、「Al-Fajr」紙のパレスチナ系アメリカ人のオーナー、ポール・アジュラウニーは、私がビジネスセンスを発揮してエルサレムを拠点とするこの家族向け新聞をうまく経営していけると考えたのだ。 私はそうしなかったし、その仕事を嫌っていた。

だが、私が収支を合わせるのに苦労しているときに、英語による姉妹出版物「Al-Fajr English」がアジュラウニーの親戚のハンナ・シニオラによって立ち上げられていた。25歳でまだ独身だった私は、校正を楽しみ、Al-Fajrが毎週印刷に回されるのをうきうきとして見たものだった。結局私は最初の記事を書くことになり、自分の名が署名欄に印刷されているのを見て大喜びした。

当時大ニュースだった事件は、ユダヤ人過激派によるナショナリストのパレスチナ人市長たちの暗殺未遂だった。ヨーロッパで数か月にわたる治療を終えたバッサーム・シャカア市長の帰国、そしてナブラス市での大衆の熱狂的な歓迎が、我々の新聞の一面を飾った。

シャカア市長と、ヘブロンのファフド・カワースィミー 市長、ラマッラーのハリム・ハラフ(ブービートラップが仕掛けられた車を始動させようとして重傷を負った)は、PLOの支持者だった。

私が本格的なジャーナリストになろうと経営の仕事から身を引くまでには、イスラエルはレバノンに侵攻しており、我々の新聞における一番の話題は、1982年のベイルートにおけるPLOの英雄的な立て籠もり、そしてそれに続くチュニジアへの出発だった。

この民族主義的な雰囲気のなかで、従兄のムバラクも米国から帰国し、「Palestinian Center for the Study of Nonviolence(パレスチナ非暴力研究センター)」を立ち上げた。独立パレスチナ人権団体「Al-Haq」の共同創設者である兄のジョナサンとともに、2人は占領地の人々に非暴力抵抗の仕組みや効果に関する教育を行った。

「先週イスラエル軍に投石し、ガソリン爆弾を投げつけ、通りをバリケードし、タイヤを燃やしたデモ隊の平均年齢は、約15歳だった」

1987年12月14日、アラブニュースの一面に掲載されたロイターの記事より

非暴力については聞いたことがない者が多かったが、一部の重要な指導者の間で好評を博した。私はムバラクとジョナサンに付いて、マルワーン・バルグースィーというビルゼイト大学の学生リーダーとのミーティングに参加したのを憶えているし、他にも、ファイサル・フサイニー、サリー・ヌセイベ、ハナン・アシュラウィといったパレスチナの著名人との数多くのミーティングについても憶えている。

ムバラクのメッセージはすぐに吸収され、ムバラクは入植者やイスラエル軍との問題で苦しんでいるパレスチナ各地の人々から電話を受けていた。非暴力抗議行動は週に数回行われ、多くの場合、重要な成果を挙げていた。

ムバラクの仕事はまだ主流にはなっていなかったものの、イスラエル側はこの動きを察知し、ムバラクを追跡するようになった。ムバラクは米国籍を持っていたのにもかかわらず、そしてエルサレムで彼のために多くの抗議デモが行われたにもかかわらず、ムバラクは逮捕された。

タイムライン:

  • 1

    ガザ地区のジャバーリーヤ難民キャンプでイスラエルのトラックが車に衝突し、パレスチナ人4人が死亡。

    Timeline Image 1987年12月8日:
  • 2

    死者を出した前日の交通事故をきっかけに、イスラエルの占領に対するパレスチナ人のインティファーダが始まる。

  • 3

    アラブ連盟がインティファーダを財政的に支援すると発表、1989年にその誓約を更新する。

  • 4

    イスラエル当局、パレスチナのガンジーとして知られる非暴力活動家ムバラク・アワッドを国外追放する。

    Timeline Image 1988年6月14日:
  • 5

    PLOのヤセル・アラファト議長、アルジェのパレスチナ民族評議会(PNC)でパレスチナ独立宣言を読み上げる。

  • 6

    マドリード和平会議の開催。

  • 7

    PLOとイスラエル、ホワイトハウスで原則宣言(オスロ合意)に署名。

    Timeline Image 1993年9月13日:
  • 8

    多国間協議が再開するが、その後すぐに行き詰まる。

  • 9

    イスラエル野党のアリエル・シャロン党首によるアル・アクサモスク訪問をきっかけに、第2次インティファーダ始まる。

    Timeline Image 2000年9月28日:

パレスチナのガンジーとして知られるようになったムバラクは、イスラエルの高等法院で敗訴し、エルサレムで生まれたにもかかわらず、右翼のイツハク・シャミル首相の命令で国外追放となった。それでも、彼が配布した文献や、非暴力やボイコットについての考え方は、その後も消えることはなかった。

1987年12月9日、パレスチナ人の怒りがガザ地区のジャバーリーヤ難民キャンプで爆発した。イスラエル軍のトラックが民間人の車に衝突し、パレスチナ人4人が死亡した翌日のことだった。多くの人にとって、イスラエル人との衝突はこの怒りが公に表れたものだったが、入植者が入植地の建設を続けていたというのは事実であり、パレスチナ人にはそれを阻止する手段がなかったというのも事実だった。そうした事情から、パレスチナ人の若者は自分たちが入手できる唯一の武器を使って入植者と戦うしかなかった。その武器とは、石つぶてだった。石なら、パレスチナの町にも村にも豊富にあったのだ。

インティファーダのイメージとしてよく思い浮かばれるのは、白黒のケフィアに身を包んだパレスチナ人の若者たちが入植者や兵士に石つぶてで立ち向かうイメージだが、私の心を捉えたのは、パレスチナ中で行われていた非暴力行動だった。

インティファダのイメージとしてよく思い浮かばれるのは、白黒のケフィアに身を包んだパレスチナ人の若者たちが入植者や兵士に石つぶてで立ち向かうイメージだが、私の心を捉えたのは、パレスチナ中で行われていた非暴力行動だった。

ダウド・クッタブ

こうした非暴力行動の中でおそらく最も目立った行動は、ベイトサフールの人々による、アメリカの革命家のスローガンを採用するという決断だった。すなわち「代表なくして課税なし」である。この町に住むパレスチナ人は、政治力を与えられない限り、税金は支払わないと決めたのである。これがイスラエル軍を苛立たせ、ベイトサフールは軍によって包囲されることになった。

非暴力抵抗運動が象徴的に表れた出来事が、イスラエルが4月にサマータイムのため時間を変更してもそれに従わないという決定である。エルサレムのダマスカス門の外に立つイスラエルの兵士がパレスチナ人の若者たちを呼び止め、その腕時計を調べるという話題を記事として取り上げたことを憶えている。時計の時刻が変更されていなければ、兵士たちはバトンで手首に付けたままの腕時計を粉砕するのだった。

1987年12月14日付のアラブニュース・アーカイブのページ。

インティファーダは、1991年に米国のジェイムズ・ベイカー国務長官がパレスチナ人にマドリード和平会議への出席を要請した時点で、ようやく終わりを迎えた。イスラエル側の代表は、ムバラクを国外追放にしたシャミル首相だった。 イスラエル代表団の報道官は現首相のベンヤミン・ネタニヤフ、パレスチナ代表団の報道官はアシュラウィだった。

その会議は何の結果ももたらさなかったが、オスロで行われた秘密協定が成功し、これが最初の突破口となって、パレスチナ自治政府の設立とPLOの占領下パレスチナ自治区への帰還という結果となった。

だがその成果も、多くの人があれほど痛い目に遭いながら望んでいた平和に対する希望も、過激派のユダヤ人入植者による当時のイスラエル首相、イツハク・ラビンの暗殺で一掃されてしまった。これによりネタニヤフ第一次政権の道が開け、それ以来、パレスチナ人の権利も夢も後退するばかりとなった。

  • ダウド・クッタブは、パレスチナとヨルダン担当のアラブニュース中東特派員。1980年代はパレスチナ唯一の英字新聞「Al-Fajr」で編集者を務めたほか、フリーランスとして外国メディアの特派員やフィクサーも務めた。国際新聞編集者協会の「ワールド・プレス・フリーダム・ヒーロー賞」やジャーナリスト保護委員会による賞など、数多くの賞を受賞している。
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