
ドバイ支局
2600年以上続くとされる日本の皇室において第126代目の天皇として正式に即位された徳仁天皇陛下は、その神話的起源からは大きくかけ離れた天皇の役割を担うことになる。
過去数十年間で、日本の天皇の役割は大幅に書き換えられた。今年5月1日に菊花紋の皇位に就かれた徳仁天皇陛下は、その変化したつとめを引き続き果たしていく意志を示されている。
陛下は、「新しい皇室のつとめ」は現代に即したものでなければならないとして、上皇さまと同様「国民に寄り添」って行きたいとの思いを示された。
神話によると、日本の天皇は天照大神直系の子孫とされ、この神によって三種の神器である八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を授けられた。
この神話的地位を守るため、三種の神器は公開が禁じられている。10月22日の即位の礼で新天皇に引き継がれる際にさえ、実物は隠されたままだった。
かつて、天皇は豊かな領地を治める権力者一族の出身で、軍を率いる司令官だった。
だが、政治における天皇の役割は、時代に応じて変化してきた。7世紀の天武天皇を含め、一部の天皇は強大な権力を誇っていた。
皇室ファンから「王の中の王」と称される天武天皇は、古代の律令に基づいた政治体制を築き、皇室の権力を確固たるものとした。
だが、武士や野心的な有力者に圧倒されてわずかな権威しか持たなかった天皇も多くいた。
昔から、天皇の主な役割は自然の中に神を見出す日本古来の神道において祭祀を執り行うことにあった。
1860年後半の明治維新によって、日本は劇的な変化を遂げ、極東の弱小国から世界的な大国へと成長した。
それまでの名ばかりの天皇とは違い、新しい明治天皇(上皇さまの曽祖父)は強大な権力を手にした。
「神聖にして侵すべからず」と定義された天皇は、国家の長として、国民が仕え、従うべき存在であるとみなされた。
この思想的枠組みが軍と政府の国粋主義者に利用され、日本を第二次世界大戦へと駆り立てていく。
1933年に誕生された上皇さまは、国会の解散から法令の発布、軍の指揮までを手中に収める完全な主権を継承するはずだった。
ところが、その全ては第二次世界大戦での日本の敗戦によって消滅した。1945年8月15日、父親である昭和天皇による前代未聞のラジオの玉音放送を、当時皇太子だった上皇さまは涙を流して聞いていたという。
皇室の運命は宙に浮いた。戦争に天皇が果たした役割から、日本の皇室は解体されるべきだという意見もあった。
だが、戦後の日本占領を率いたダグラス・マッカーサー元帥は、皇室の存続を決定し、その権力を大幅に縮小させ、天皇を象徴的な存在とすることに成功した。
戦後の勅書によって、天皇は神とみなされるべきではないという点が明確にされたが、豊穣と国家の平和を祈ることは引き続き天皇の主な役割のひとつとされた。
上皇さまはこうして書き換えられた役割を受け入れ、1989年に即位されると、民主主義の時代に即して天皇の役割を変えていくことに専念された。
祭祀を行う宗教的義務と、外国からの賓客を迎える公務に加えて、上皇さまは平和の促進に力を注がれた。
国粋主義を否定され、日本の過去に「深い反省」の意を示され、歴史を書き換えるのではなく、記憶を受け継いでいくことの大切さを訴えられた。
また、ご自身に付託された宗教的な祈りをささげるだけでなく、全国を回られて自然災害の被災者を見舞われた。
1991年に雲仙・普賢岳噴火の被災地で避難所を訪れた際には、シャツの袖をまくり、靴を脱ぎ、膝をついて人々に話しかけられ、日本国民を驚かせた。
その現代的なアプローチは、リスクを伴うと懸念されることもあった。静岡福祉大学の歴史学教授小田部雄次氏は言う。「ギャンブルのようなものでした。天皇が神とされた時代、このような行為は考えられなかったことです」
だが、この変化によって上皇さまの人気は高まった。日本国民の多くは、天皇に対して「好意的な感情」を抱き「尊敬」すると答えている。
「ある時代には、天皇はローマ法王のような存在で、また別の時代には皇帝のような存在でした。今、天皇の役割は国王のそれと似ていると言って良いでしょう」。京都産業大学の法学部准教授久禮旦雄氏は言う。「天皇の役割は、それぞれの時代を反映しているのです」
上皇さまは、天皇としてのご自身のお立場を定義されることは、「終わりのない」プロセスだったと語られていた。そして今年4月30日、1817年以来初となる退位とともに、上皇さまはそのプロセスを徳仁天皇陛下へと引き継がれた。