Since 1975
日本語で読むアラビアのニュース
  • facebook
  • twitter

マスマク城塞:サウジアラビア統一の重要な歴史的シンボル

統一の象徴として知られるマスマク城塞は、アル・サウード家が統治権を復活させた戦いの史跡の地だ。
統一の象徴として知られるマスマク城塞は、アル・サウード家が統治権を復活させた戦いの史跡の地だ。
Short Url:
22 Sep 2021 09:09:44 GMT9
22 Sep 2021 09:09:44 GMT9

ラマ・アルハマウィ

リヤド:マスマク城塞の歴史的重要性や、1932年にサウジアラビア国家成立における各州の統一に果たした役割については見過ごされがちだ。しかし、その30年前、後のアブドルアジーズ国王と63人の兵士がリヤドにそびえ立つこの城塞を奪還したことは、サウジアラビア王国の発展を語る上で欠かせない。

アル・マスマク博物館のサレーハ・S・ビンサイフ館長は、アラブニュースの取材に対し、「アブドルアジーズ王はこの戦いで死にかけたが勝利し、統一を開始したのです」と語る。

「もし彼があの戦いで捕らえられて殺されていたら、サウジアラビアはなかったでしょう。少なくとも今日のような形のサウジアラビアではなく、全く違う形になっていたと思います」

サウジアラビア統一の象徴であるマスマク城塞は、支配権争いの流れをサウード家に有利にし、現代のサウジアラビアへの道を開いた歴史的な戦いの舞台だ。

城塞の西側に位置する高さ3.6メートルの門は、ヤシの木の幹とイグサで作られている。

第二次サウジ王国時代の1865年に建設されたこの城塞には、アラビア語で「厚い壁で覆われた高くて強い建物」を意味する「マスマク」という名前が付けられた。リヤドを守る守備隊とその弾薬庫が置かれ、リヤド防衛の主要拠点となっていた。

サウード家による第二サウジ国の支配は、わずか16年で終わった。1881年に崩壊してアル・ラシード家が支配すると、旧支配者一族はクウェートに亡命を余儀なくされた。

1902年1月15日未明、アブドルアジーズ・ビン・アブドル・ラフマン・アール・サウードが63人の部下を連れてリヤドに到着するまで、ラシード家はこの場所を支配していた。アブドルアジーズは作戦が失敗した場合に備えて23人を国境で待機させ、残りの者と一緒に首都に入り、城塞と都市の奪還を試みたのである。

そのチャンスは、当時城塞を占拠していたラシードの総督アジュランが、安全な城壁の外で馬の様子をうかがっていたときに訪れた。アブドルアジーズが攻撃を開始すると、アジュランの護衛が現れ、彼を城塞の中に連れ戻そうとした。

(コーハ)は、アジュランが家臣によって窓の中へ引っ張られ、アブドルアジーズ王が彼を外へ引っ張り出そうとしていた場所。(左) ファハド・イブン・ジャラウィ王子の槍の先端が、今でも城塞の門に突き刺さっているのを見ることができる。(右)

その際、アブドルアジーズの従兄弟であるファハド・ビン・ジルウィ・ビン・トゥルキ・アール・サウードがラシードに向かって槍を投げたが、それは外れて城塞の門に刺さった。この槍の先端は現在も残っており、この戦いの有名なシンボルとなっている。

戦いが続く中、アブドルアジーズの部下が門を破り、戦いは城塞の中へと移っていった。アジュランは殺され、彼の部下たちは降伏した。

戦いそのものは残酷で血なまぐさいものだったが、アブドルアジーズは城塞を守る兵士たちの多くを、以前に自分の家族に仕えたことがある者として知っていた。一族が支配した後、アジュランに仕えることが彼らの義務となったのだ。アブドルアジーズが城塞を奪還すると、彼らは即座に降伏し、サウード家に仕えるようになったのである。

そして、アブドルアジーズの部下の一人が城塞の上に登り、リヤドの人々に「アブドルアジーズが戻ってきて、リヤドの首長になった」と宣言した。

これが、30年後にサウジアラビア王国を建国することになるアラビア半島の統一運動の始まりだった。

ディルイーヤ: 過去、現在、そして未来
アラブニュース ディープダイブ特別版王国発祥の地へ
Enter
keywords

特に人気
オススメ

return to top