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レバノン――禍福はあざなえる縄のごとし 仏委任統治領からの100年

1920年9月1日、レバノン。ベイルートでおごそかに挙行される「大レバノン」の宣言。当時のベイルート市総督ナジーブ・ベイ・アブー=ッスアーン氏の宣誓に耳を傾けているグーロー将軍と将軍を取り巻くマロン派総主教フワイーク聖下、イスラム法学者ら。(Getty Images/資料写真)
1920年9月1日、レバノン。ベイルートでおごそかに挙行される「大レバノン」の宣言。当時のベイルート市総督ナジーブ・ベイ・アブー=ッスアーン氏の宣誓に耳を傾けているグーロー将軍と将軍を取り巻くマロン派総主教フワイーク聖下、イスラム法学者ら。(Getty Images/資料写真)
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01 Sep 2020 04:09:40 GMT9
01 Sep 2020 04:09:40 GMT9
  • 宗派政治は「大レバノン」のはるか以前、オスマン帝国領のころから興隆していた
  • 元来レバノンという国は、フランスが中東に影響力を残すことを目的に「親仏」を意図された国だった

エフレム・クサイフィー

【ニューヨークシティ】8月4日にベイルート港を襲った大規模爆発の残骸のただなかで、心に傷を負った人々は自分がそこにいることでどうやら慰撫されているらしい――そのように感じたフランスのエマニュエル・マクロン大統領はまた同時に、自身が9月1日に「大レバノン」創設100周年を祝するためにふたたびレバノンの地を訪れることを告げることになろうとは、何とも尋常ならざる身の上だと思ったろう。

マクロン氏がその日、レバノンの一般国民と交わったことは過去100年の時間を振り返らせた。100年もの間、フランスはつねに、全幅の信頼などは寄せられてはいないものの、「慈母の国」と称されてきた。現代のレバノンが国としてどのようにして作られたか。また、フランスの指導者がなぜベイルートを訪れるのか。この二つの間には100年という歳月でもとうてい言い尽くせぬものがある。

1919年、当時の米大統領ウッドロー・ウィルソンはパリへ向け大西洋の船上にあった。その胸には、第一次世界大戦の終結をへた新たな世界秩序への確乎たるビジョンが秘められていた。すなわち、国家間の問題は、国家主権や民族自決、紛争解決のための武力行使の拒否に基づき、公開の場でこれを取り持つ、というビジョンだ。

勝利した連合国側は敗北したドイツ帝国やオスマン帝国などの同盟国側への処置を決するためパリ講和会議へと参集した。そのとき、だれしもの脳裏にはこんな疑問があった。「病める」オスマン帝国の残された領土や崩壊したその他の帝国領を一体どうするのだろうか、と。

当時の米国には植民地主義に対する根強い反対論があった。当時の欧州にあった諸帝国の維持や拡張に手を貸すことになる戦いに加わる意図は米国には一切なかった。ウィルソンには、スカンジナビア諸国のような小規模で統治状態のよい国家に委任統治領を供与するといった意向があった。そういった国々には保護領を植民地とするような野心なりも方策なりもないはずだし、新生国家には悪くない勧告となろうとの見立てだった。

「ウィルソンがパリに着いてみると、仏英の首相らにそんなことをさせようという意思などかけらもありませんでした」。そう言うのは、『アラブ人から民主主義を盗んだ西洋諸国』の著者で歴史家のエリザベス・トンプソン氏だ。

仏英両政府は中東に自国主体の新秩序を確立すべく交渉中だった。ウィルソンとしてはとうてい呑めるようなものではない。フランスは前世紀にシリアとレバノンに多額の投資をおこなってきていた経緯があるため、中東に自国の影響力を温存させることにつながる「親仏の」独立地域を作ることを主張していた。

その新たな一帯となる地域は、少数派のマロン派キリスト教徒の安全な避難先となる必要があった。当地を総督として束ねていたアンリ・グーロー将軍は、みずからも熱心なカトリック教徒ということもあってマロン派には強い思い入れがあった。アルメニア教会の信徒らがトルコ人による虐殺で路上に屍となっているのを目睹していたキリスト教徒らは畏怖の念を強めていたのだ。

1920年、ベイルートの街で二列に並んだ歩兵隊の前を通過するグーロー将軍。隣にはゴワベ将軍をともなっている。(Alamy)

山岳地帯では飛蝗の群れに襲われ農作物が涸渇、飢饉となっていた。さらに連合国側によるベイルート沿岸の封鎖も重なり、数万人規模の死者が出ていた。そのようなこともあり、1920年9月の第一日目には感情的な昂りがいや増していた。

1920年9月1日、「大レバノン」成立の輝かしい祝典の陰には、ある重要な事実が隠されていた。フランスはイギリスに対しベイルート沿岸の封鎖を解くよう嘆願していたが、イギリスはこれを一蹴していた。封鎖は続けられることとなった。飢餓こそが核心的な問題であり、累々たる死屍が続いた。

トンプソン氏は言う。「それからほぼちょうど100年経って、マクロン氏はふたたびレバノンの地に立ったのです。爆発現場に立ち、共感を広げ援助を約束したのです。マクロン氏は賞讃されるべきでしょう。2017年2月には選挙運動中にアルジェリアを訪れ、植民地主義は人道に対する罪だとし、フランス人に謝罪を求めたような人です」

「ですが、フランス人が100年前のレバノンにした行為についての謝罪の言葉は一切聞けていません。それは、当時の国際連盟がフランスに委任統治領を与えた際のことも同断です」

「第一次大戦が終結すると、フランス人は穀物袋を引っさげてやって来て、自分たちは貧しいレバノンの人々の救世主なのだと宣言しました。そのときに、いまの宗派主義が導入されたのです。行政や立法の実権をどう握れるのかは、所属する宗派がどこかで決まります」

「宗派主義はレバノン市民を分断しています。まさに正反対なのがフランス革命でしょう、一切の調停メカニズムを作りませんでしたから。こういった権力分散の仕組みをフランス人が思いついたというのもなかなか皮肉ではありませんか」

「このときの宗派主義の仕組みがいまのレバノン政治に根づく深い分断の温床となったのです。これがあるためにレバノンは安定した政権の進展を損なわれていることは誰しもが知りすぎるほど知っていることです。本来は全レバノン国民のためになる制度だったはずなのに」

とは言い条、大レバノン成立のはるか以前から宗派政治は興隆してはいた。その以前のオスマン帝国の属州時代、地域間の均衡を図るためにすでに宗派主義的な制度は浮上していた。

「フランスによる委任統治によっておこなわれたのは、宗派主義の固定化でした。オスマン帝国下で広くおこなわれていた制度は継続されたのです」。そう語るのは、『殉教者広場の亡霊たち』の著者で、カーネギー財団中東センターの上席エディターを務めるマイケル・ヤング氏だ。

「1943年、レバノンがその国民憲章において合意にいたったとき、フランス委任統治領時代に導入された制度の多くは慣行となりました。例を挙げれば、大統領はキリスト教徒から、首相はスンニ派から、国民議会議長はシーア派から就く、といったようなことです」

世俗国家の設立を長く希求してきたレバノンの詩人、アンリ・ズガイブ氏にはこんな信念がある。「宗教における宗派主義は善です。どの宗教にも宗派はあるものだから。が、国家における宗派主義は破滅をもたらします」

「貴族と聖職者が社会を抑圧していた1789年よりもはるか前にフランス革命はすでに始まっていました。革命の機が熟しバスティーユが襲われたとき、聖職者も政治家もそれまでの増上慢を思い知らされることとなりました。権力の源は人民に移ったのです。人民の意向が『天の声』となったわけです。が、同じことが起きてもそれがレバノンなら、『天の声』が発せられるのは宗派主義という化け物の口からだった、というようなていたらくなのです」

一口に宗派主義と言っても、ヤング氏は1975年のレバノン内戦勃発以前のものと内戦終結後のものとを峻別する。

「1990年に内戦が終結したとき、シリアとサウジによる新秩序がもたらされました。レバノンをめぐり一種の合意形成に両国がいたり、ターイフ合意と呼ばれるものに帰結します。ラフィーク・ハリーリー氏の首相指名もそんな結果にもとづくものです」と同氏は言う。

イスラエル軍により爆撃されているベイルートの西部地域。1982年8月2日に撮影された。(AFP/資料写真)

「レバノン国内は実質的にシリアが差配していました。シリア人はそれで何をしたのか? 簡単に言えば、レバノン内戦時の政治的同盟者に対し、レバノン国内での地歩を与えたということです」

ヤング氏はさらに言う。「目下の宗派制のいまひとつの問題点は、それがすべてを妨害する言い訳となっていることです。現状では合意が一切ないために何もかもが妨害されます。仕組みが完全に機能不全を起こしているのです」

1920年、華々しく大レバノン成立の宣誓祝典が挙行されたが、その陰でキリスト教宗派は自己の命運をある他国に負託したというのが実態だ。他国、すなわちフランスだ。国外勢力への依存はレバノン史において繰り返されてきたことだ。これが何十年もの間レバノンの発展をくじき、各宗派間の対抗意識を煽り立てたのだ。

似たようなことはまだある。1967年の第三次中東戦争の結果、レバノンは敗者のパレスチナ人らを受け入れることとなったものの、一部のレバノン人は戦闘を継続する意向のパレスチナに与することとなった。1982年にもイスラエルのアリエル・シャロン国防相がレバノン入りした際には、マロン派がイスラエルと同盟を組んだ。国内他宗派との合意など一切経ることもなく。

「レバノン社会のどこを見渡しても、宗派主義というゲームの法則など無視しています。これは節度というものを求めてやまないものだけれども、レバノンに節度ある者など誰もいはしないのです」とヤング氏は言う。

「今のレバノンは、ヒズボラと呼ばれる武装組織が支配しており、これが主権国家としてまとまることを許しません。この問題が解消しなければ緊張状態はやみません。さらに言えば、ヒズボラはレバノンに忠誠を誓う軍事組織ではありません。忠誠を誓うのは外国。そこにこそ問題があります」

ヒズボラ系放送局アル=マナールの2016年3月1日付けテレビ放送画面から。レバノンのシーア派軍事組織ヒズボラ指導者のハサン・ナスラッラー師がレバノン国内の非公開の場所からテレビ演説をおこなっている。(AFP/アル=マナール/資料写真)

ヤング氏はこう結ぶ。「レバノンには国内問題などはありません。つねにレバノン国外の何者かと結びついた問題がわれわれの問題ですから。これがあらゆる階層を弱化させているのです。マロン派も勢力を失ったしスンニ派も勢力を失った。いま勢力を保っているのはヒズボラとシーア派だけです。まあどうなることか、見てみようじゃありませんか」

アンリ・ズガイブ氏について言えば、詩人はみずからとみずからの同胞らがその愛する祖国に対して犯したとする過失一切について、「すべておのが過ちよ」と声を振り絞っている。

とはいえ詩人らしく、ズガイブ氏は楽観的に希望をいだくほうへと即座に翻意する。「レバノンにはイスラム教にキリスト教にと、礼拝施設が山とあります。首都ベイルートの中心では、聖ゲオルギウス大聖堂を取り囲むようにしてムハンマド・アル=アミーン・モスクが建っています。本来のレバノンのありようというのはそういったものなのです」と詩人はアラブニュースに語っている。

「キリスト教にせよイスラム教にせよ、十字架に新月、コーランにバイブルの教え、これらを崇め重んじなければ何を大切にするというのですか。『慈悲あまねく慈愛深き神の御名において』、『父と子と精霊の御名において』。どちらも同じ、神の高みへといたる二つの道筋です。レバノンとは実に’Leb-Anon’ということ、すなわち『神の御心』の謂なのです」

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Twitter: @EphremKossaify

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