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日本人ファン、故マラドーナは「別の惑星から来たようだった」

これまでに存在した最も偉大なサッカー選手の一人、マラドーナは、ブエノスアイレスの自宅で心臓発作を起こし、天国へと旅立った。(提供写真)
これまでに存在した最も偉大なサッカー選手の一人、マラドーナは、ブエノスアイレスの自宅で心臓発作を起こし、天国へと旅立った。(提供写真)
フランスの東、ナンシーのスタジアムでのプラティニの記念行事で握手してポーズを決める、アルゼンチンのディエゴ・マラドーナ(左)、ブラジルのペレ(中央)、フランスのミシェル・プラティニ。1998年5月23日のファイルより。(AP通信)
フランスの東、ナンシーのスタジアムでのプラティニの記念行事で握手してポーズを決める、アルゼンチンのディエゴ・マラドーナ(左)、ブラジルのペレ(中央)、フランスのミシェル・プラティニ。1998年5月23日のファイルより。(AP通信)
ディエゴ・マラドーナを追悼してサン・パオロ・スタジアムの外に飾られた品々を見つめる男性。イタリア南部のナポリで。(AP通信)
ディエゴ・マラドーナを追悼してサン・パオロ・スタジアムの外に飾られた品々を見つめる男性。イタリア南部のナポリで。(AP通信)
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26 Nov 2020 11:11:59 GMT9
26 Nov 2020 11:11:59 GMT9

クラレト・モンソレート(ドバイ)

ディエゴ・マラドーナの急な死は、控えめに言っても全世界をショックで揺るがせた。これまでに存在した最も偉大なサッカー選手の一人は、ブエノスアイレスの自宅で心臓発作を起こし、天国へと旅立った。

日本で行われた1979年のFIFAワールドユース選手権で、異端児マラドーナは母国アルゼンチンを優勝へと導いた。

その3年後、マラドーナはボカ・ジュニアーズと共に日本代表との国際親善試合のために再来日した。当時、すでにマラドーナは世界中で大人気のスターで、日本も例外ではなかった。日本のファン達は彼の来日に狂喜した。

共同通信によると、その時の親善試合でプレーした日本人代表選手の多くがマラドーナのプレーに魅了されたという。

「初めて自分よりも上手い選手に出会ったと思った」と、ミッドフィールダーの木村和司。「同世代の中では特別な選手だった」と、現在62歳の木村は語った。

ディフェンダーの加藤久も親善試合に出た選手の一人だ。利き足が左だったマラドーナのことを「別の惑星から来た」ようだったと表現する。

「彼は見ないでプレーをしていた。私たちは動きが読めず、どうやってあんなパスができるんだろうと愕然としていた」と、加藤は振り返る。「体のあちこちに目がついているかのようだった」

FCケルンに所属し、ドイツのブンデスリーガで優勝した初の日本人サッカー選手となった奥寺康彦はマラドーナの「ドリブルは誰にも止められなかった」と語る。

1978年にFCケルン代表としてドイツのブンデスリーガで優勝した初の日本人選手、奥寺康彦(右)はマラドーナの「ドリブルは誰にも止められなかった」と語った。(AFP)

現在のアルゼンチンのスター選手リオネル・メッシはプレーのスタイルと利き足からよくマラドーナと比べられるが、元日本代表フォワードの原博実はマラドーナの方が「よりインパクトが強かった」と感じている。

「彼はワイルドな異端児だった。だが、それこそが私たちが彼に惹きつけられた理由だった」原は、ためらうことなく何人もの相手チーム選手に向かっていくマラドーナの姿を思い返した。

原博実はマラドーナの方がインパクトが大きかったと感じている。「彼はワイルドな異端児だった。だが、それこそが私たちが彼に惹きつけられた理由だった」と、原。(AFP)

「彼がボールをキープする個性的なやり方をみんながコピーしようとしていた。誰もがマラドーナになりたがっていた」

元セルティックのスターでやはり利き足が左の中村俊輔は子供時代に何時間もマラドーナのプレーを録画したビデオを見て、ドリブルやトレードマークのフリーキックを真似しようとした。

「今でも同じビデオを時々見る。彼のようになるのが自分の夢だった。サッカーをプレーし続ける限り、彼のレベルになろうと目指し続けるだろう。たとえ、少ししか近づけなくても」と、J1に昇格した横浜FCで今も活躍する42歳のミッドフィールダー、中村は語る。

元セルティックのスターでやはり利き足が左の中村俊輔は子供時代に何時間もマラドーナのプレーを録画したビデオを見て、ドリブルやトレードマークのフリーキックを真似しようとした。(AFP)

日本サッカー界の象徴で中村のチームメイトでもある53歳の三浦知良は横浜FCを通じ、お悔やみのメッセージを発表した。

「あなたがサッカーのためにしてくれたことすべてに、ありがとう」と、三浦は書いた。

日本サッカー界の象徴、三浦知良は「あなたがサッカーのためにしてくれたことすべてに、ありがとう」と、書いた。 (AFP)

アラブ諸国の中では、マラドーナは特にサウジアラビアとUAEに愛着を持っていた。

1986年アルゼンチンをワールドカップ優勝に導いたマラドーナは、その後すぐ、サウジアラビアでアル・アハリ代表としてクラブの50周年を記念するエキシビジョンマッチでプレーした。

マラドーナの存在に力づけられ、アル・アハリはデンマークのブロンビーを5対2で破った。マラドーナ自身は2回のゴールを決め、他の3回でもシューターにパスをつなぐ役割を果たした。会場全体が興奮と喜びで沸き立った。

次にマラドーナがアラブ諸国に戻ってきたのは、だいぶ時間が経ってからだ。移った国はアラブ首長国連邦(UAE)で、後にマラドーナはよくこの国を第二のホームと呼んだ。

「母国からは遠く離れているのに、第二のホームを見つけたんだ。本当だ」と、マラドーナは一度記者会見で語った。

UAEと蜜月を過ごしたこの期間、マラドーナはアル・ワスルやフジャイラのコーチを務めた。彼のオーラは魅力にあふれ、何千人もの観客が彼を一目でも見ようとスタジアムに押しかけた。

通常、試合の後には代表チームのコーチとメディアの代表数人で記者会見が行われるが、マラドーナ時代は手順が守られることはなかった。ファンたちがアルゼンチンの国旗を持って押し寄せたからだ。

マラドーナの輝かしい存在感はUAEサッカーの再興につながった。世界は今やマラドーナの動きを注視しており、その結果、多くの人がUAEサッカーについて知ることとなった。UAEFAの戦略は大成功だったといえよう。

残念なことに、コーチとしてはマラドーナは望むような成果を上げることができず、それにより、彼はフィールド内でボールと対話することとフィールドの外から指示を出すのはまったく別の「ゲーム」なのだと気がついた。

それにもかかわらず、UAEはマラドーナとの関係を継続し、「スポーツ親善大使」に任命した。

マラドーナの死は確かに世界に大きな穴を残したが、彼のサッカー選手としての業績、そしてNo.10のジャージはいつまでも人々の記憶に残り続ける。

アルゼンチンを1986年のワールドカップメキシコ大会出場へと導いた、かの有名なイングランド戦の「神の手」ゴールを忘れられる者がいるだろうか?

マラドーナは、また、ブラジルの伝説の選手ペレと特別なライバル関係を築いていた。「どちらが世界最高のサッカー選手か」という議論には答えが出ないままだ。

だが、昨日マラドーナに送った賛辞で、ペレは「いつか空の上でまたボールを蹴ろう」と言った。

アディオス、ディエゴ・アルマンド・マラドーナ。

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