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教皇を待ち望む長崎、その劇的なカトリック史

日本南部での原子爆弾攻撃で損傷した聖マリア像を前に語る、6万人の長崎カトリック教会コミュニティを預かる日本の大司教、高見三明氏。(AP)
日本南部での原子爆弾攻撃で損傷した聖マリア像を前に語る、6万人の長崎カトリック教会コミュニティを預かる日本の大司教、高見三明氏。(AP)
20 Nov 2019 02:11:41 GMT9

長崎、AP

  • 38年ぶりとなる日本へのローマ教皇訪問をフランシスコ氏が実施するにあたり、彼はおそらく隠れキリシタンと呼ばれた人々の根気強さを称えて過去を振り返るだろう
  • カトリック教会拡大の場として西洋圏から一度は熱望されたこの国への訪問にあたり、長崎はいろいろな意味で完璧な背景となる

教皇フランシスコによる日本への初の公式訪問が長崎から始まるというのは、ふさわしい話だ。そこは、日本で初めてキリスト教が根を下ろした街である。そして500年近く後になっても、その街は宗教と政治の両面で血に染まった象徴主義の只中にある。

何世紀にも及んだ暴力的迫害の間、窮地に陥ったカトリック教会改宗者の小さなグループが地下へと潜ったのは、この場所だった。その子孫が19世紀、信仰を保ったまま隠れ家からの劇的な浮上を遂げたのは、この場所だった。そして米国の原子爆弾が死をもたらし、コミュニティがとうとう建てることのできた大聖堂を破壊したのも、ここだった。

38年ぶりとなる日本へのローマ教皇訪問をフランシスコ氏が実施するにあたり、彼はおそらく隠れキリシタンと呼ばれた人々の根気強さを称えて過去を振り返るだろう。一方では、核兵器の脅威から自由になった未来という彼の展望を掲げることもするだろう。

いろいろな意味で長崎は、同国への教皇訪問にあたり完璧な背景となる。日本はカトリック教会拡大の場として西洋圏から一度は熱望された。しかし1億2700万人という人口のうち、カトリック信者数は0.35パーセントのみだ。11月23日に始まる訪問の見所の1つは、二十六聖人の記念館で教皇が捧げる祈祷となる。二十六聖人とは、1870年頃まで続いたキリスト教迫害の初期、1597年に処刑された信者たちだ。

「クリスチャンだった私たちの先祖は虐げられ、監視され、そして核攻撃に苦しみました。その全てが、『そこにどんな意味があっただろうか?』と私に問いかけました。」日本人大司教の高見三明氏は語った。「もしかすると長崎の信者には、平和を伝達するという使命が与えられたのかもしれません。」

日本では群を抜いて大規模となる6万人の長崎カトリック教会コミュニティを預かる高見氏は、隠れキリシタンの子孫だ。1945年8月9日に原子爆弾が落ちた時、彼は母親の子宮に居ながら浦上教会近くで放射線へと晒された。74000人を殺したこの爆弾により、彼は数人の身内を亡くした。この死者数は、大聖堂内にいた2人の司教と24人の信者を含んだものである。

その爆発で損傷した聖マリアの像を持って世界中を旅してきた高見氏と他の活動家らは、教皇が長崎の全ての住民に代わり、反核の力強いメッセージを送ることを期待している。

多くの核生存者とその支援者は、それが国連の核兵器禁止条約参加へと日本政府を動かすことを願っている。米国の核の傘で保護された日本は、核保有国と非保有国間の隔たりを埋めることに貢献したいとしてこの条約への署名を拒否している。

フランシスコ氏は、核問題について他の教皇よりも強い姿勢を取ってきた。彼は使用だけでなく、核兵器の単なる保有であっても「断固として非難されるべき」と述べている。

長崎、そして米国の核爆弾によりさらに14万人が亡くなった広島を訪れるにあたり、フランシスコ氏は核兵器全面禁止への訴えを繰り返すだろう。

彼は、核爆弾の生存者、そして2011年3月に日本北部を襲った津波と地震に続き福島を見舞った原子力災害の被害者とも面会する予定だ。

「あなたの国は、戦争から生じる苦しみをよく知っています。」フランシスコ氏は訪問前夜、日本人に向けた動画メッセージで語った。「あなた方と共に、核兵器の破壊的な力が再び人の歴史に向けて解放されないことを祈ります。核兵器の使用は、人の道に外れる行為です。」

73歳の高見氏は、爆撃の後に長崎で多くの人々が耐え忍んだ苦しみを、親戚から聴いて育った。そして浦上聖堂を訪れる度、彼は平和への決意を噛みしめた。

「どんな兵器も恐ろしいですが、核兵器にはその何百倍という恐ろしさがあります。」高見氏は語り、それらが廃止されるべきだ、と付け加えた。「世界の指導者たちは、安全で離れた場所から核兵器について語り、何十万人、何百万人さえ殺すことのできるそれらを戦争抑止力と呼ぶのを、恥じるべきです。」

長崎の人々の多くは、教皇が最初に彼らの街を訪れることを喜んでいる。長崎はしばしば、広島での出来事に覆い隠されがちなのだ。

「長崎への訪問を、核兵器禁止の必要性を力強く訴えるために使ってくださるよう願っています。」原子爆弾生存者の娘であるマルオチズコ氏は語った。彼女は、市の野球場で開催される教皇の日曜ミサに出席を予定している。

フランシスコ氏はまた、隠れキリシタンの子孫数名にも挨拶を予定している。彼らは、長崎北部の島で神道や仏教を信仰する地元住民の支援を受けて隠れる間に、「オラショ」またはオレシオとして知られる独自の祈りを作り上げた。

日本のカトリック教徒の間ではパパ様として知られるフランシスコ氏は広島と東京でもミサを執り行い、日本天皇および首相とも面会を予定している。

命についてのフランシスコ氏のメッセージは普遍的であり、特に今の世界情勢下では人々の心に届くことができる、と元駐バチカン大使の上野景文氏は語った。

「世界の指導者たちがいっそう大衆主義者化する中、教皇の言葉は、国際コミュニティと道徳的権限の美徳にできるものです」と彼は述べた。

若い頃のフランシスコ氏は長崎でのクリスチャンの歴史に魅了され、布教者としてその地を訪れたがっていた、と言われている。

最初のイエズス会宣教師、聖フランシスコ・ザビエルが日本に到着した1549年以後、長崎周辺地域は急速なカトリック教拡大の中心地となった。キリスト教を西洋支配の始まりとして恐れた徳川幕府が1612年に禁止するまでに、25万人以上の日本人が改宗したと言われている。

キリスト教徒は信仰を捨てるよう強要され、背くと死刑になった。そしてキリストの肖像を踏みつけなければならなかった。見つかれば、キリスト教徒は拷問された。多くが沸き立つ温泉に入れられるか、焼かれて殺された。

固い意志を持ったカトリック教徒少数派の小グループが隠れ家に潜み、250年以上の間秘密裏に信仰を実践した。1865年、隠れキリシタンたちはとうとう外国人神父へ近づきその沈黙を破った。しかしキリスト教禁止令は当時も敷かれており、3300人のカトリック信者が長崎から追放され、1873年に禁止令が解かれるまで帰郷は許されなかった。長年夢に見た大聖堂を、彼らは1914年に建造した。

浦上付近でカトリックの像を作る職人の中田三穂氏は、カトリック信仰を追うために大名への忠誠を絶った侍のひ孫だ。侍の一団が、彼の曽祖父の家族を待ち伏せて襲いそのほとんどが殺された。

カトリック神学校で学んだ後、中田氏は彼の父が創業した、家族経営の工房で働くために戻った。

「私の家族は、殺されるか拷問されるかを常に恐れながらも信仰を守った先祖のみを理由に、ここに住んでいます」工房で聖マリアと聖人たちの何十体もの像に囲まれ、中田氏は語った。「彼らの献身と強い信仰、そしてそのために全てを捨てたということに、私は大変な感銘を受けたのです。」

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