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米国主導の侵攻から20年 イラクの重要性は不変

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21 Mar 2023 03:03:31 GMT9
21 Mar 2023 03:03:31 GMT9

歴史上、メソポタミアの地は常に、諸々の強国が次々と新たな幻想をいだいては進出と失敗を繰り返してきた舞台であった。今年(正確には3月19日、この日曜日)は、米国主導によるイラク侵攻から20年目に当たっている。それだけでなく、歴史をたどればガウガメラの戦いでアレキサンダー大王がアケメネス朝を倒してから今年は2354年目、カルヘの戦いでローマ帝国の三頭政治家の1人、マルクス・リキニウス・クラッススがパルティア軍に敗れて死んでから2076年目である。さらに、ローマ皇帝ユリアヌスがサマラ郊外でサーサーン軍に敗れて死去してから1660年目、ヌルディン・アル・ゼンギの手によって十字軍国家のエデッサ伯国が崩壊してから879年目、そして、3月11日、大英帝国のスタンリー・モード将軍がオスマン帝国からバグダッドを奪取してからは(正確には3月11日で)106年目となっている。

ここ1ヶ月ほど、2003年のイラク侵攻がもたらした影響についての論評が氾濫している。私はそのほとんどに目を通している。今ちょうど読み終わったのは、2003年、ジョージ・W・ブッシュ大統領に任命され、戦後のイラクを管理する連合国暫定当局(CPA)の代表を務めたポール・ブレマー氏が『Interpreter』誌に寄稿した「イラクで成功した事柄」というタイトルの記事だ。これは、ブレマー氏が自身と暫定当局の偉大な功績だと信じているものを列挙したものである。(ガウガメラの戦いで敗れた)ダリウス、クラッスス、ユリアヌス帝、(エデッサ伯国の)ジョスラン伯、(オスマン帝国の軍人)エンヴェル・パシャのような戦いに敗れた側の人物によるこの種の事後評価が存在しないのは、残念なことだと私は思う。

連合国暫定当局が取った様々な措置について、ここで改めて論じるつもりはない。主要な措置の例としては、イラク軍と警察を解体するやり方、脱バース党政策とその実施、先進的な金融機関などの設立努力、馬車が通れるほど穴だらけの憲法案の起草、イラクの場所や国情すらろくに知らない何千人もの米国人など人員の暫定当局への急遽採用、そして米英両国の政府内における、手持ちの材料で何が現実的に達成できるのかについて基本的政策の混乱、などが挙げられる。

当時私はイラクにいなかった。エルサレムで全く別の仕事に取り組んでいたのだ。

いずれにせよ、事態の記録そのものは既に充分行われている。米国の議会予算局および調査局、国務省、国防総省、英国のチルコット報告書(付託条項の草案作成および検討には私も携わった)、さらにジャーナリストや学者、その他の観測筋が著した詳しく時には非常に優れた内容を持つ多数の書籍があるからだ。

私がイラクに直接関わりを持ったのは、2007年、ロンドンの外務省で中東・北アフリカ担当局長に就任した時に始まり、バグダッド駐在大使の任を離れた2011年までである。

4年に過ぎない期間だった。しかし、2011年以降も、私は、イラクで学ぶべきだった教訓について、考えるのを止めたことはない。

ブレマー氏の主張の根本的な問題は、それが事実でないということではない。問題は、その主張は2003年以降にイラクで起こったことと関係が無い、ということなのだ。また、歴史も無視している。サダム・フセインは野蛮な独裁者で、その家族も残忍でグロテスクなまでに強い権力を持っていた。サダムへの支持は親族や部族、少数派の宗教団体からのもので、社会には恐怖が広がっていた。1980年にイラクがホメイニ師のイランに攻撃を仕掛けたのには理由があった。しかし、サダムと軍の上層部は、この戦争の遂行においては誤ちを犯し続けた。1990年8月のクウェート侵攻も、イラクの経済的損失を補填するためのものであったが、これも見事に誤った判断であった。

国際社会は、サダムの判断の誤りを、イラク敗戦後により深刻なものにしてしまった――ひとつは、サダムの軍隊が南部のシーア派や(一時的に)北部のクルド人に復讐することを許してしまったこと、もうひとつは、サダムの不可避だが愚かな反抗への対処について国連を通じて合意できなかったことによってである。

その結果、現代で最も長く、最も有害なもののひとつとされる制裁体制が生まれ、イラク社会の大部分が貧困化し、イラク経済、またそれに伴い国連の一部までが腐敗し犯罪化することになった。サダムは、一連の国連安保理決議の条件に従うだけで、これらすべてを回避することができたはずだった。2003年までの間に大量破壊兵器を持っていないことを認めなかったのと同様に、サダムはそれを拒否したのである。

サダムの拒否は愚かなものであった。しかし、サダムと制裁によって破壊されたイラクの社会基盤を、単に軍事力、(しばしば現地の知識をほとんど持たない)地方ごとの復興チーム、そして新たな権力を通じて下される命令によって修復できると信じたのもまた、愚かなことだった。2003年5月1日、ブッシュ大統領が「mission accomplished(使命は達成された)」と宣言したのは有名な話だ。それも愚かなことだった。その後に続いたのは激しい内戦であり、その結果、当初はアメリカの武力行使に怯えていたイランが最終的な勝者として浮上したのだ。

サダムと制裁によって破壊されたイラクの社会基盤を簡単に修復できると信じたのは、愚かだった。

ジョン・ジェンキンス卿

皮肉なことに、2003年初頭の時点では、イラク人の大多数は、程度の差こそあれ米国主導の軍事介入を歓迎していた。彼らは事態の改善を求めており、10年以上にわたり社会的に大きな悪影響をもたらしていた孤立に終止符を打つことを望んでいたのは確かである。2010年、ヌーリ・アル・マリキが米国の黙諾を得てアヤド・アラウィから不正に選挙で勝利した年でさえ、瓦礫の中から何かを救い出すチャンスは残っていたのだ。しかし、民主主義を謳い文句にイラクにやってきた米国は、実際にイラク人が変化を求めて投票したとき、変化は危険すぎると判断した。リベラルな方向性はもはや重視されなくなったのだ。

このことは、もちろん、この地域にマイナスの影響を与えることになった。イラクの歴代首相にたとえどんな美徳があったとしても(実際には美徳に欠けている場合が多いが)、彼らは国を統治しているわけではない。イランとそのイデオロギー的な同盟国が、半ば見えないところに隠れて国を支配しているのである。制裁がもたらした腐敗に代わって、隣国イランとシリアの搾取と収奪による腐敗がまん延しているのだ。そして、新しいイラクのエリート層(その多くは2003年当時は国内で部外者的な存在だった)は、官僚と軍隊という重要な手段だけを支配しているのである。イランで新たな紛争が起きれば、彼らはレバノンのようにイラクを引きずり込むだろう。

また、イラク情勢は欧米の政界にも大きな打撃を与えた。進歩の必然性に対する信頼の失墜が積み重なり、各国の政府に対する信頼が大幅に失われたのである。特に米国と英国においてそうであったが、現実には他の国々にも波及することとなった。ただし、政府の信頼喪失はイラクだけが原因ではなく、2007~2008年の金融危機、中国の台頭、管理不足の移民流入の影響、ソーシャルメディアの爆発的普及など他の要素も関係している。しかし、バルカン半島での戦争が終結し、社会的リベラリズムの世界的な拡大は必然の成り行きに見えた2000年当時の未来への大きな期待は、はるかに暗いムードに取って代わられてしまった。イラクの惨状は、「政府は決して信用してはならない」と主張する人々にとって、第一の証拠となるものである。

おそらく長期的には、こうした変化も、単に現実主義への好ましい回帰であり、自分たちの思い通りに世界を形作ろうとする傾向に対する有益な謙虚さを示すものと捉えられるようになるのだろう。湾岸諸国における最近の動向は、欧米の不確実さに直面して、各国政府が安全保障のため独自の対策を取り始めていることを示している。

私たちが気を引き締めれば、一緒にできることはまだたくさんある。イラクはまだ立ち直れないほどには落ち込んでいないのだから。多くのイラク人は、イランが自分たちの弱さを利用したやり方に対して深い憤りを感じている。また、イラク人は、自分たちの国が、その起源が何であれ、地域全体の中心であり続けていることを知っている。メソポタミアは、アラブ、ペルシャ、トルコの各世界が交わる場所で、インド洋と南コーカサス地方への玄関口でもある。すべての偉大なアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)はメソポタミアを基点としている。砂漠と農地、南の神殿都市と北の山々から成るこの地域、そのすべてをチグリスとユーフラテスの大河系の水が潤している。

イラクの著名な社会科学者アリ・アル・ワルディは、イラクのアイデンティティの二面性についてこう書いている:イラクのアイデンティティは今、むしろ複数の面を持つものと言う方がふさわしい。それがイラクを特別なものにしている。しかし、それにはサポートが必要だ。イラクをより大きなアラブ世界に再統合するためには、その多元性を考慮し、祝福する必要がある。そして、それには時間と忍耐が必要なのだ。

もし、一部の国の人々がイラクから略奪し、自らの代理組織に武器を供給することを望むなら、イラクの最善の利益を心に留める人々が代わりにするべきことは、学校、病院、診療所、発電所、企業を作ることだ。人々の生活を悪くするのではなく、良くするのだ。何十年もかかるだろう。しかし、その価値はある。それこそが、イラクの独立と、地域の安全保障の要としての地位を取り戻す唯一の方法なのだから。
結局のところ、はるか昔から数々の帝国がメソポタミアをめぐって争ってきたのには、常にある理由があったのだ。メソポタミアは重要な地域なのだ、という理由が。

  • ジョン・ジェンキンス卿は、ポリシー・エクスチェンジ(Policy Exchange)の上級研究員。201712月まで、バーレーンのマナーマに拠点を置く国際戦略研究所(IISS)の通信理事(中東担当)を務め、イェール大学ジャクソン国際情勢研究所の上級研究員も務めた。元駐サウジアラビア英国大使(~20151月)。
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