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ヌーラ王女:「男性40人分の頭脳」を持つ女性

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22 Sep 2021 09:09:59 GMT9
22 Sep 2021 09:09:59 GMT9

ロジエン・ベン・ガッセム

1902年にリヤドを奪還した叙事詩的な戦いにおいて、サウジアラビアの建国者アブドルアジーズ・ビン・アブドル・ラフマンと共に戦った兄弟数人の英雄譚は、サウジアラビア王国建国物語のかなめの部分になっている。

だが、建国記念日には、あの激動の時代に将来の国王の姉、ヌーラ・ビント・アブドルラフマン・アール・サウード王女が果たした役割も忘れてはならない。

1歳年長のヌーラ王女は子供時代を通じて、将来の国王アブドルアジーズ・ビン・アブドル・ラフマンの遊び相手だった。1891年のアルムライダの戦いで父親の軍がライバルのラシード朝に敗れ、王家は亡命を余儀なくされたが、亡命期間を通じて姉は弟のそばに寄り添っていた。

運命が手招きしたとき、とサウジの女流歴史家ダラル・ムクリド・アル・ハルビ博士は2008年の著書『中央アラビアの著名な女性たち』のなかで記述している。ヌーラ王女は「リヤドでの先祖の権威ある地位を奪還しようとするアブドルアジーズ国王の探求にとって偉大な霊感の源になっていた」 

王女は「1度目の奪還の試みに失敗した国王のリヤド奪還に向けた意思を強固にする役割を果たした。国王がリヤド奪還の2度目の試みの準備を整えたとき、母は激しく泣き続けて、思い留まらせようとした。だが、ヌーラ王女はこの任務を遂行するよう国王を励まし、そして国王は奪還に成功した。この出来事は、王家のクウェート亡命期に王女が果たしていた、弟を支えた役割の一つの現れだ」

リヤドを奪還し、アール・サウード家が本拠地に帰還した後に、王女のこの役割は弟である国王にとっていっそう重要なものになった。アブドルアジーズ国王が最終的にヒジャーズとナジュドの統一、そして1932年のサウジアラビア王国建国へと至る長く困難な道のりを歩み始めたためだ。

1875年にリヤドで誕生したヌーラ王女は、弟の成長に寄り添い、王家の亡命時には弟の試練を分かち合った。

将来の国王が国家の重荷を引き受けるにつれて、2人の絆は強まるばかりだった、とアル・ハルビ博士は記述している。そして、「ヌーラ王女が弟である国王との間に築いていた親密な関係は、家族の自然な絆に友情などを伴うすべてものだった。相談、意見を求めること、助言を与えることなど」と強調している。

生涯にわたる2人の結び付きは非常に深いもので、「アブドルアジーズ国王は毎日王女のもとを訪れようとし、王女を見ずに一日が終わることのないことを切望した」

1930年代にリヤドに電話が導入された際、最初の回線は国王の宮殿と姉の宮殿をつなぐものだった。

王女は常に率直な回答と健全なアドバイスを期待できる、国王の相談相手だった。王女は「アブドルアジーズ国王に対して率直で、心の中の考えを恐れや躊躇なしに国王に伝えた」と、アル・ハルビ博士は記している。

故バンダル・ビン・ムハンマド・ビン・アブドルラフマン・アール・サウード王子は、アブドルアジーズ国王の異母弟である父ムハンマド・ビン・アブドルラフマン・アール・サウード王子の伝記のなかで、ヌーラ王女のことを「あの時代にあって読み書きを習得した数少ない女性の一人だ」と記述している。

そのおかげで、王女は「理解が非常に深く、適切な判断ができる女性だった」。王女の「人格は最高」で、「アール・サウード家の全員に敬愛され」、「人の心というものにも実によく通じていた」

2020年1月に95際で亡くなったバンダル王子は、ヌーラはサウジアラビア王国中の両親の間で人気の女の子の名前になった、と付け加えている。「ヌーラ王女の高貴な人となり、判断の適格さ、誠実、寛大さ、適切な話しぶり、謙虚さにちなんで娘の名前とした」。

ヌーラ王女はこのすべての性質を備えていただけでなく、「サウード家以外の人間も含めて、周囲の人たちにとっての問題を、明晰かつ賢明な判断で解決できる驚くほどの能力にも恵まれていた。(それに)サウジアラビア人でも外国人でも、人々との良好な関係を築くことができた」

2012年にアラブニュースのコラムニスト、アブドゥラテーフ・アル・ムルヒム氏は、王女は「サウジアラビア王国に留まらず湾岸地域でも、最も人気が高く、カリスマと影響力がある女性であった。王女のアドバイスのいくつかは、この地域の歴史に非常に大きな影響を及ぼした」と記述している。

アル・ムルヒム氏によると、欧米の学者は王女のことを「国王が統治する国のファーストレディー」とみなした。他方、高齢のサウジアラビア国民の多くが王女のことを「男性40人分の頭脳を持つ女性」と呼んでいた。

「たいへん魅力的で賢明な女性」であっただけでなく、「トップクラスの政治家兼戦略思考家」でもあったことは疑いない、とアル・ムルヒム氏は記している。

アル・ハルビ博士は著書のなかで、王国建国からそれほど経っていない時期にサウジアラビアを訪れた外国人に王女が与えた印象についての回想を紹介している。 

1936年まで英国のクウェート駐在官を務めたハロルド・リチャード・パトリック・ディクソン中佐の妻バイオレット・ディクソン氏は、1937年にヌーラ王女と会っている。そして、後に王女のことを、「これまでに出会ったなかで最も魅力的で楽しい女性の一人、あらゆる時代を含めて最も美しく、偉大で、有名な女性の一人」であるだけでなく、「アラビア半島で最も重要な人物の一人」でもあると記述している。 

英国の植民地行政官であったハリー・セントジョン・フィルビー氏は、アブドルアジーズ国王の顧問に就任した後の1930年にイスラム教に改宗しているが、氏にとってヌーラ王女は「国のファーストレディー」同然だった。

王女は「政治や社交の多くの面で大きな役割を果たした」が、おそらくその最たるものは、アール・サウード一族内の不和を解消するという重要な件だったろう、とアル・ハルビ博士は記述している。

王女は1900年代初めにサウード・イブン・アブドルアジーズ・イブン・サウード・イブン・ファイサル・イブン・トゥルキ氏と結婚した。氏は弟である国王と仲違いした王家の分家の出身だ。この結婚は「アブドルアジーズ国王と従兄弟との和解プロセスの外向けの象徴」だった。いさかいはしばらく続いたが、「1912年までには事態は解決し、サウード氏はアブドルアジーズ国王の最も忠実な支持者の一人になった」

アル・ハルビ博士は次のように記している。「この心変わりの功績の幾分かはヌーラ王女に帰せられるべきだ、と私は考える。サウード氏は王女を深く愛していたからだ。この出来事は、王女の英知、思慮分別、そしてサウード氏と弟である国王との亀裂を修復したいという真摯な思いを表している」

1950年7月に75歳で亡くなる直前まで、ヌーラ王女は弟である国王にとってのアドバイスと霊感の源であり続けた。国王はその3年後に亡くなっている。大胆さ、知恵、俊敏な思考が必要となる困難な状況に直面したときはいつでも、アブドルアジーズ国王は「私はヌーラの弟だ!」と自身を鼓舞し決断に至ったものだった。と多くの情報源が回想している。

今日なおヌーラ王女の名前と精神は健在で、この先駆的な女性にふさわしい賛辞が捧げられている。

2006年に初の総合女子大学がリヤドに設立された。カレッジ6校を統合したものだが、その最初のカレッジは1970年に女子教育庁が設立している。2008年10月29日、アブドッラー・ビン・アブドルアジーズ・アール・サウード国王はキャンパスでの定礎に際して、この世界最大の全員女性の教育機関となった大学を、プリンセス・ヌーラ・ビント・アブドルラフマン女子大学と改名した。今日ではPNUとして知られている。

国王は定礎式で、「女性は単なる『義務』ではなく、それ以上の『責任』を負っている。それは社会の安定を維持し、この国の経済建設に貢献し、国内外において最高の水準で社会や国家を代表するという責任だ」と述べている。

父の愛する姉であり相談相手であったヌーラ王女に直接向けられていたのかもしれない演説で、同国王は次のようにも語っている。「優しい母親になりなさい、模範になる市民になりなさい、成果を出せる働き手になりなさい。国外においては、母国と社会の大使になりなさい、自らの宗教、信仰、そして私たちの抱く価値観を代表する者になりなさい」

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