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トルコにとって厳しい教訓となる日本の震災復興

トルコ南東部の都市アンタキヤ、震災で破壊された建物を上空から撮影。2023年、2月9日木曜日。(AP通信)
トルコ南東部の都市アンタキヤ、震災で破壊された建物を上空から撮影。2023年、2月9日木曜日。(AP通信)
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11 Feb 2023 08:02:50 GMT9
11 Feb 2023 08:02:50 GMT9
  • 月曜日に発生したマグニチュード7.8の地震による犠牲者数の合計が20,000人を超えた
  • この死亡者数は日本の震災で亡くなった18,400人を既に超えている

東京:瓦礫の山、ねじれた金属製建材、想像を絶する規模の死者数。悲嘆。憤激。生き残れた安堵感。

社会の根幹を引き裂くほど強力な自然災害の後には何が残るのだろうか?10年後、世界が変化していく中でなお残り続けるものは何なのだろうか?

トルコとシリアで今週起きた災害と日本北部で2011年に起きた災害の類似点は、トルコとシリアの今後数年間の状況を想定する参考になるかもしれない。2つの災害は、集団的精神的外傷や失われた生命、そして物理的な破壊の影響力の大きさを共有している。

当局が木曜日に新たに遺体を発見したことを発表し、その結果、月曜日に発生したマグニチュード7.8の地震による犠牲者数の合計が20,000人を超えた。この死亡者数は日本の震災で亡くなった18,400人を既に超えている。

2011 年 3 月 11 日午後 2 時 46 分に発生した日本の震災はマグニチュード 9.0だった。発生後まもなく、東北地方の沿岸地域を海水の壁が襲い、その様子を数多くのカメラが捉えた。この地震は記録上最大級のもので、引き起こされた津波は自動車や家屋、オフィスビル、何千人もの人々を押し流し、福島第一原子力発電者のメルトダウンを引き起こした。

海から何kmも離れた、かつて都市だった場所に聳え立つ乱雑な瓦礫の山に大型の船舶が残され、廃墟となった街路や破壊され尽くした建物の間で自動車が玩具のように横倒しになっていた。

震災に見舞われた地域が以前の状態に戻ることはあり得るのだろうかと、数多くの人々が思った。

日本が経験した震災から得られる最大の教訓は、この規模の災害には結末などないということだ。トルコは、同国北西部で発生し約18,000人が死亡した1999年の地震の経験からこの教訓をよく理解しているはずだ。復興についてどれほど語られようとも、東北を襲った大震災は日本国民の意識と人々の生活景観に深い傷跡を残した。

死者数に着目してみよう。

トルコを襲った地震に直接的に起因する死亡者数は今後数週間で横這いになるはずだが、もうそれ以上にはならないということではない。

日本の場合は、震災の後に、ストレス性の心臓発作や不慣れな生活環境のために数千人が亡くなったことが知られている。

そして、日本では数千億米ドルが復興に費やされたが、その場所だけが持つ特別な雰囲気を初めとして、もう元には戻らないこともあったのだ。

震災まで、東北地方には農地に囲まれた数多くの小都市や村落があり、港湾は係留された漁船の船団でいっぱいだった。この地方には、日本でも有数の自然にあふれた美しい海岸線の風景があった。

現在、震災や津波による瓦礫はほぼ片づけられ、多くの道路と建造物も再建された。とはいえ、建物が再建されていない市街地や、利用が再開されていない農地が広い空地のままになっている場所もある。企業は、顧客基盤を再構築するために何年もかけている。

日本で震災時に救助に携わった人々が行ったように、トルコとシリアの救助隊は、現在、破壊された建物を掘り起こし、ねじれた金属建材や粉砕されたコンクリート、むき出しになったワイヤーを取り除いて生存者を助け出そうとしている。

次の段階は容易ではない。

日本には、当初、災害に強いという自国の能力に対するはっきりとした誇りがあった。人々は、食料や水のために静かに長い列に並んだ。破壊された町の掲示板には、救助隊が発見してくれることを願って、家族の特徴を書いたメモが貼られた。

東日本大震災発生後、東北地方では、建物の残骸にまだ残っているかもしれない生存者のために救助隊員たちは作業を続け、見つかった遺体はテープが巻かれた毛布に包まれて救助隊員たちが運び去るまで瓦礫の傍らに横たえられた。

復興の長い道のりは、当初の決意をぐらつかせた。為されるべき事は単純ではなく、時には苦痛なほど時間を要し、政府の無能さや卑小な争いや官僚的な口論が進捗を阻んだ。日本では50万人近くが避難したのだ。数万人の人々は未だに自宅に戻れずにいる。

復興にまつわる問題は、特に福島第一原子力発電所の壊滅的なメルトダウンがもたらした状態への対応についての議論が決着せず、政治的な領域に持ち込まれてしまった。震災の数年後には、放射線量に対する恐怖感が広まり、日本の北部地方の一部では公園やその他の公共の場所に放射線測定器が設置されるようになった。原子炉内の放射線量の高い燃料デブリをいかに取り除くかについて、当局の担当者たちや専門家たちは未だ決定に至っていない。

トルコ政府が地震多発地域での不動産ブームを規制しなかったにも関わらず何年も現代的な建築基準を施行せず、また、震災への対応も遅かったという避難の声が既に上がっている。

2011年以降の数年間にはもう一つの失敗があったと、日本の当局者が認めた。震災を経験したことで精神的外傷を受けてしまった人々を助けられなかったことだ。

東北地方の安否不明者は2,500人に上り、今も愛する人の亡骸を探している人々がいる。ある男性は、ダイビングのライセンスを取得し、何年もの間毎週海に潜って妻の痕跡を探し続けている。

震災の犠牲者の写真アルバムや衣類、その他の所持品を掘り出そうとする人は現在でも珍しくはない。

おそらく、それでも、大災害を生き延びた人々が分かち合う強い共感、そして苦しみを和らげてくれようとする見知らぬ人への感謝は、明らかな強い絆として現れてくる。

2011年に約6か月間、トルコの救助隊員約30人が、甚大な被害を被った七ヶ浜町で捜索や救助活動を行った。

七ヶ浜町の人々はそれを忘れてはいない。彼らはトルコへの寄付キャンペーンを現在開始したところだ。七ヶ浜町のある男性は、トルコの惨状を見て12年前に彼自身の町が陥った苦境を思い出し泣いたと語った。

七ヶ浜町の寺沢薫町長は、日本で活動したトルコの救助隊員たちについて、「瓦礫の中を勇敢に歩いて被災者を見つけ出し、遺体をご家族にお戻しすることに大きな力を貸してくれました」と、語った。「私たちは彼らへの感謝の気持ちを今でもまったく忘れていません。何か恩返しをしたい、感謝の気持ちを伝えたいと私たちは思っています」

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