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コソボ紛争

1998年3月5日、コソボの政治指導者たちが自治権を高めようと長年苦闘してきた平和的努力が実を結ばす、コソボ解放軍は、イスラム教徒が多数を占めるユーゴスラビアの地域におけるセルビア人支配に対して武力蜂起した。(ゲッティイメージズ)
1998年3月5日、コソボの政治指導者たちが自治権を高めようと長年苦闘してきた平和的努力が実を結ばす、コソボ解放軍は、イスラム教徒が多数を占めるユーゴスラビアの地域におけるセルビア人支配に対して武力蜂起した。(ゲッティイメージズ)
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24 May 2020 09:05:37 GMT9
24 May 2020 09:05:37 GMT9

エミナ・オスマンジコヴィッチ

主にイスラム教徒であるアルバニア人たちの苦境がイスラム世界の人道支援を引き出した

概要

199835日、コソボの政治指導者たちが自治権を高めようと長年苦闘してきた平和的努力が実を結ばす、コソボ解放軍は、イスラム教徒が多数を占めるユーゴスラビアの地域におけるセルビア人支配に対して武力蜂起した。これがセルビア政府の過酷な反応を引き出し、セルビアは戦闘員と民間人を区別せず、隣接するアルバニアに多くの難民が流れ、重大な人道危機をもたらした。

NATOは、スロボダン・ミロシェヴィッチ・ユーゴスラビア大統領によるアルバニア系コソボ人への軍事行動に対する直接的な反応として、1999324日にセルビア軍への空爆を開始した。NATOの軍事行動は11週間続き、多くの民間人の死と深刻なインフラ被害を引き起こした。

19996月にユーゴスラビアが和平提案を受け入れた後、ハビエル・ソラナNATO事務総長はNATO軍に空爆停止を命じ、それに続いてコソボにおける国連の暫定統治を認める安全保障理事会決議1244を採択した。コソボは2008年に一方的な独立を宣言し、この決定が現在もまだ対立を残している。

ドバイ:近年のたいていの紛争がそうであるように、1998年から1999年のコソボ紛争は短かった。それはユーゴスラビア残部地域のコソボにおけるセルビア人支配に対するコソボ解放軍(KLA)の武力蜂起で始まった。セルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領政府は威圧的な武力でこれに応対して大量の難民危機を引き起こし、コソボのイスラム教徒がボスニアの際のように大虐殺されるのではとの不安が巻き起こった。

NATOは長期的な空爆作戦で介入し、和平協定へと導いて紛争を終結させた。2008年2月に、コソボはかつてない喜びと歓声が上がるなかでセルビアからの独立を宣言した。

国連と一部のEU加盟諸国はコソボを独立国家として認めたが、セルビアはロシアを後ろ盾としてこれを認めなかった。それ以降コソボは、低・中所得経済の議会制民主主義という中途半端な状況にある。
 
 

1990年代にボスニア戦争時代の子供としてサラエボで成長した私としては、近隣のコソボの出来事は永遠に心に刻まれている。その下に横たわるのが昔からの憎悪であることは嫌というほど知っている。歴史的にコソボはセルビア帝国の中心部に位置し、中世には数々のセルビア王たちが戴冠式を執り行った場所だ。

1974年に元ユーゴスラビアである程度の自治を獲得していたにもかかわらず、この地域の多数を占めるイスラム教徒のアルバニア民族はセルビア民族の支配に苛立っていた。1980年代末にコソボ指導者のイブラヒム・ルゴヴァは、ミロシェヴィッチがコソボの合法的自治を廃止したことに対して非暴力主義の抵抗を開始した。

ミロシェヴィッチ大統領とコソボのセルビア人マイノリティーたちは、キリスト教正統派のセルビア人たちにとって深い意味をもつ地域を人口的にも政治的にもアルバニア民族が支配していることに長らく苛立っていた。1992年から1995年のボスニア戦争中、そしてユーゴスラビアの分裂後にも、コソボ人たちはセルビア民族主義者たちから疑念の目で見られ始めていた。

Key Dates

  • 1

    コソボ解放軍(KLA)の武力蜂起によりコソボ紛争が始まる。

    Timeline Image 1998年3月5日
  • 2

    NATOがセルビアに対する空爆行動を開始する。

    Timeline Image 1999年3月24日
  • 3

    開戦から11週間後にNATOが空爆を停止する。

  • 4

    ユーゴスラビアは無くなり、国家連合セルビア・モンテネグロという名称に代わる(後者は2006年5月21日に独立する)。

    Timeline Image 2003年2月4日
  • 5

    異議を受けながらもコソボがセルビアからの独立を宣言する。

    Timeline Image 2008年2月17日

民衆は、ルゴヴァの平和的手法では自治の獲得は無理だと確信するアルバニア人過激派を支持するようになっていった。そのなかで1996年にコソボ解放軍(KLA)が出現し、セルビア人警官や政治家たちを散発的に攻撃した。その行動はその後の2年間で激しさを増していった。

セルビアの警察、民兵組織、軍隊の強圧的戦略が引き金となって大量の難民危機が発生し、それが国際社会やメディアの注目を集めた。「連絡調整グループ」として知られる米国、英国、ドイツ、フランス、イタリア、ロシアからなる非公式連合は、様々な事項のなかでもとりわけ即刻の停戦を求めた。

サウジアラビアが主導する湾岸諸国は、人道支援を組織して紛争の平和的解決を模索することに重点を置き続けた。
エミナ・オスマンジコヴィッチ

国連安全保障理事会はこれを過剰な力の行使として非難し、武器禁輸措置を課したが、その措置で暴力行為をやめさせることはできなかった。3月24日にNATOはセルビア軍を標的に空爆活動を開始した。これに反応してセルビア軍は何十万人ものコソボ人たちをアルバニア、マケドニア(現在の北マケドニア)、モンテネグロに追い立てた。

戦時のコソボ人たちの苦悩はイスラム諸国からの同情と支援を誘発したが、イスラム首脳のなかには、NATOが国連を差し置き、軍事活動を「人道的戦争」と位置付けていることに対して非難するものもいた。

空爆開始の一方的決断の正当性は、国際法的にも疑念の余地があった。しかし当時のコフィー・アナン国連事務総長は、「平和追及のためには軍事力の行使が正当化される場合もある」と言って道徳的見地から介入を支持した。

当時ユーゴスラビアと親密な関係にあったリビアやイラクなどのアラブ諸国は、予想にたがわず政治的解決を主張した。サウジアラビアが主導する湾岸諸国は、その焦点を人道支援や紛争の平和的解決に合わせ続けた。サウジアラビアは公式発表によれば、テント、ナツメヤシ、毛布、カーペットなど120トン以上の救援物資を積んだ輸送機2機を派遣した。




1998年3月6日のニュースを示すアラブニュース・アーカイブのページ。

サウジの救援輸送機C-130 ハーキュリーズが、毎日ジッダまたはリヤドからアルバニアの首都ティラナまで救援品を届け、届け先ではサウジ大使館と空軍職員が物資を降ろした。1999年3月24日に開設したティラナの野戦病院のほかにサウジは、アルバニアとマケドニア全土にさらに10カ所のヘルスセンターを設置した。

1999年4月16日にサウジの慈善企画「テレソン」が約1900万ドルの募金を集めた。この開催に携わったジッダのイスラム慈善救済組織は、人道支援に1200万ドルを送ったと述べた。別のクウェートのテレビ番組の取り組みでは、クウェート首長のシェイク・ジャベル・アル・アフメド・アル・サバハが直々に100万ドルを寄付し、1日で700万ドルを集めた。

アラブ首長国連邦の団体は最大規模の救済キャンプを設置し、そこで約1万人のコソボ難民に食事と基本的な設備へのアクセスを与えられ、備品の完備された野戦病院も用意された。赤新月社は、マケドニアとアルバニアに難民キャンプを設営した。

NATOの空爆活動は11週間続いてやがてはベオグラードにまで拡大し、街のインフラに深刻な損傷を与え、多くの民間人が不慮の死を遂げた。1999年6月に、ユーゴスラビア政府はロシアとフィンランドの共同仲介による和平提案を受け入れた。

NATOとユーゴスラビアは、軍の撤退と約100万人の難民およびコソボの50万人の国内難民の帰還を記した和平協定に署名した。セルビア人のほとんどはこの地域を離れた。NATOの人道的軍事介入は罪のない何千人ものコソボ人の命を救った。

  • エミナ・オスマンジコヴィッチッチ氏はアラブニュースで難民記事を書いているが、彼は1990年代のボスニア戦争中にサラエボで育った。ツイッター:@eminaosmnandzik
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