そのとき、ユナイテッド航空175便が2番目のサウスタワーに激突したときのリプレイ映像が流れた。まるでタワーが紙でできているかのように飛行機はタワーを突き抜け、オレンジ色の火の玉となって崩壊した。ニューヨークで起きているのは恐ろしい出来事ではあるものの、偶発的な災害ではないかという一縷の望みは一瞬にして打ち砕かれた。
プラヤ・サン・ファンでは、それから数日にわたって、誰もが元々たわいのない活動だと認めていたレースを、大惨事の衝撃も収まらないうちに予定通り開催することの是非をめぐって多くの議論が交わされた。
私のチームメイトも含めて数人の漕ぎ手はレースを中止するべきだと主張した。最終的にレースは開催されたが、私のチームメイトは心ここにあらずで、1週間海上で過ごした後、レースから脱落し、救助艇としてレースに伴走していた2艇のヨットのうちの1艇に乗船した。私を含む他の参加者は「我々が生き方を変えたらテロリストの勝ちになる」というお題目を支持していたが、正直なところ、私の開催強行論の動機はそれよりずっと個人的で利己的なものだった。
Key Dates
1
CIAが大統領への日々の状況説明で「ビン・ラディンが米国におけるテロ攻撃を決定」をトップ項目にあげ、「ハイジャックの準備と符合する我が国での疑わしい活動」を警告。
2
アメリカン航空11便が午前8時46分にノースタワーに激突。ユナイテッド航空175便が午前9時3分にサウスタワーに激突。アメリカン航空77便が午前9時37分にペンタゴンに激突。ユナイテッド航空93便が午前10時3分にペンシルベニア州ストーニークリーク・タウンシップ付近に墜落。
3
ドナルド・ラムズフェルド米国防長官が「不朽の自由作戦」を発表。
4
サウジアラビアがアフガニスタンのタリバン政権との国交を断絶。
5
FBIがハイジャック犯19名全員を特定。その内訳はサウジアラビア人が15名、UAE出身者が2名、レバノン人が1名、リーダーはエジプト出身のモハメド・アッタ。
6
米国がタリバン政権の打倒とアルカイダの駆逐を目的にアフガニスタンを攻撃。

7
8
9
ビン・ラディンが攻撃の責任を認める。

10
米海軍特殊部隊がパキスタンのアボタバードの隠れ家でビン・ラディンを殺害。
11
ツインタワーの跡地に建てられた9.11記念碑が完成。
12
18年間の戦争の末、米国とタリバンが暫定和平協定を締結。

私は猛特訓を重ね、ロンドンのタイムズ紙の記者を休職し、1年の大半を費やして一人で建造したボートで、このレースに参加していた。予定通りの開催以外の選択肢は考えられなかった。
最終的に、私たちの大半は、このレースに参加したボートの中で唯一の米国のボートを操船していた二人の米国人クルーを精神的支柱とした。彼らは手を引くつもりは毛頭なかった。テロ攻撃後の数日間にわたって、米国政府は海外で暮らしている自国民に対して、なるべく目立たないようにするよう勧告していたが、生粋のニューヨーカーである漕ぎ手の一人は、どこへ行くときも必ず星条旗を誇らしげに肩にかけるという形でその勧告に反応した。

サウジアラビアは昨日、米国のワールドトレードセンターとペンタゴンへの「嘆かわしく、非人道的な」攻撃を糾弾し、あらゆる形態のテロリズムと闘う姿勢を明確に表明した。
2001年9月12日のアラブニュースの一面記事より
最終的に、レースは予定通り2001年10月7日にスタートした。それと同じ日に、米国は、激しい怒りに身を任せるかのように、アフガニスタンを攻撃した。9.11の攻撃は、1996年以来アフガニスタンの大部分を支配していたタリバンに庇護されたテロ組織、アルカイダのメンバーによって実行されたと米国は結論づけた。
海上で一人きりになった私の脳裏には、炎の猛威に立ち向かうことができず、飛び降り自殺をするツインタワーに閉じ込められた人々の姿や搭乗機がペンシルベニア州ストーニークリーク・タウンシップ近くの地面に激突する直前の恐怖の数分間にハイジャック犯を制圧しようと必死に闘ったユナイテッド航空93便の乗客たちの胸に去来した思いが浮かび、脳内で繰り広げられる恐怖の光景に私はおののいた。
一日中オールを漕いで疲れ果てた私は、毎晩ボートの甲板に横たわり、満天の星々を見上げて、夜空を西から東へ横切る飛行機のうちどれが米国の報復の道具を運んでいるのだろうかと思った。
「9.11の余波は、黒い灰の雲のようにイラクとその周辺地域を覆い尽くし….”
ジョナサン・ゴーナル
大気の状態が良いときは短波ラジオでボイス・オブ・アメリカを聴き、米国が「対テロ戦争」を開始したこと、最終的に9.11で亡くなったおよそ3千人よりはるかに多くの人々の命を奪うことになる大惨事に向かって世界が着実に突き進んでいることを知った。
多くの国がその支配権を認めていたタリバン政権を追放した米国と、タリバンに代わって支配権を握ったアフガニスタン暫定政権は、いつの間にか自分たちが、反乱軍として生まれ変わったタリバンに直面していることに気付いた。米国は、継続的な和平交渉にもかかわらず、ほぼ20年後の今日に至るまで尾を引いている米国史上最長の戦争に着手した。
テロ攻撃の黒幕であるオサマ・ビン・ラディンは、2001年12月にアフガニスタンで米軍地上部隊の追跡を危うく逃れた後、ほぼ10年間逃走していたが、2011年5月にパキスタンのアボタバードの隠れ家で米軍特殊部隊に発見され、殺害された。

2001年9月12日の記事が載っているアラブニュースのアーカイブのページ。
一方、ジョージ・W・ブッシュ大統領が2001年9月に発表した「対テロ戦争」の一環として、2003年3月、大量破壊兵器を保有している独裁者サダム・フセインの打倒を口実に、米軍が主導する連合国軍がイラクに侵攻した。
フセインは大量破壊兵器を保有していなかった。だが、9.11の余波はイラクとその周辺地域を黒い灰の雲のように覆い尽くし、イラクの経済を窮地に追い込み、数千人の命を奪って、ほぼ間違いなく、アルカイダと同盟を組んだイスラム国と、中東の広大な地域に過激派の「カリフ制」を確立しようというイスラム国の破滅的な企みを野放しにする結果を招いた。
9.11の出来事がいかに世界を大きく変えたか、西洋と東洋の対立構造を決定的に変えたかを私が実感したのは、ようやく再び陸地に足を下ろした後のことだった。動揺したと言わないまでも驚いたのは、私の一人息子が英国海兵隊に入隊し、イラク侵攻に先立つ2003年初頭にクウェートへ向かったことだ。
その年の春、私は再び何週間にもわたってテレビのそばに陣取り、電話機をそばに置いて、その年、そしてその後何年にもわたって、洋の東西を問わず、多くの家族を打ちのめすことになる報せを受け取らずに済むことを祈った。幸い息子は無事だった。息子の仲間の中には生き残れなかった者もいる。9.11の後、自分の世界が一変しなかった人はいない。
- 9.11が起きたとき、アラブニュースのライターであるジョナサン・ゴーナルは、大西洋横断ボートレースに出場するためにロンドンのタイムズ紙を休職していた。英国海兵隊員である彼の息子は、後にイラク侵攻に従軍した。