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大量破壊兵器が大衆欺瞞兵器になったとき

戦争は表向きには、アメリカが間違い誤解し、サダムの大量破壊兵器と主張したものを壊滅するために開始された(ゲッティイメージズ)
戦争は表向きには、アメリカが間違い誤解し、サダムの大量破壊兵器と主張したものを壊滅するために開始された(ゲッティイメージズ)
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20 May 2020 09:05:22 GMT9
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Siraj Wahab

大量破壊兵器が大衆欺瞞兵器になったとき

要約:

2003320日、ジョージ・ブッシュ・ジュニアにより当時率いられていたアメリカは、サダム・フセインを権力から排除することを主眼として、イラクへの一斉攻撃を開始した。表向きには戦争は、アメリカが間違い、意図的に誤解し、サダム・フセインの大量破壊兵器と主張したものを壊滅するために開始された

共和国防衛隊としてしられるサダムの親衛隊を含むイラク軍は、地下に潜伏しゲリラ戦を立ち上げた。その破壊的な影響は、17年後、いまだに問題になっている。混乱がもたらされ、アルカイダやIS、イラン民兵の復活につながり、いま国全体がかつてない流動的な状態になっている。アメリカのイラク侵攻の決断によって、イラク全体が苦難にみまわれ、中東はかつてない状況にある。

ジッダ:2003年のアメリカのイラク戦争をわれわれは何と呼ぶべきか。アメリカ人は、それを解放と呼ぶことに全く問題を感じない。しかし、アラブの観点からは、どこか完全に異なる。私たちの新聞の何ページかをめくれば、2003年3月20日夜のバグダッド爆撃につながるまで、多くのアラブ人がイラクでのアメリカの戦争に反対したことに直面するだろう。人々が反対したのは、イラクをイランにやすやすと受け渡してしまうことを、正しく予見していたからである。

アメリカ大統領ジョージW.ブッシュは常にサダム・フセインに偏見を持っていた。ブッシュ内閣の同僚やアドバイザー、特にドナルド・ラムズフェルド、リチャード・パールその他の政府のネオコンらは、彼らの病的なサダムへの嫌悪を隠そうとする努力を全くしなかった。

どのようにしてブッシュがフセインを軽蔑するようになったのか、いくつかの異なった理論がある。いくつかのレポートは、ブッシュが憎しみを持ったのは、彼の父がクウェートを訪問したとき、サダムが父を殺すことを計画したためだと言っている。真実がどうであれ、ブッシュ・ジュニアのアドバイザーらは、大統領の強い嫌悪を最大限に利用し、様々な話でそれをあおった。

2001年9月11日のアルカイダによるアメリカ本土での恐怖の攻撃は、ブッシュと彼のアドバイザーにサダムを捕まえる理由を与えた。サダムは、アルカイダとそのリーダー、ウサマ・ビン・ラディンの支持者として描かれ、イスラム教テロリズムという同じ黒いブラシで汚された。


しかし、サダムが誰よりもアルカイダを憎んでいたことは有名なことで、この話に騙された中東人はひとりもいない。バース党支持者として、イスラム教のテロリストに、統治への重大な脅威を察していた。大敵であるイランよりもはるかに強力な脅威だった。

「サウジアラビアは昨日、アメリカ主導のイラクでの戦争には、どのような状況下でも参加しないと宣言した。イラクでのあらゆるアメリカの軍事行動に対して強い反対の声を上げた。」

2003年3月19日版アラブニュース1面のスタッフの話から

しかし、9/11後の雰囲気では、話をでっち上げ、敵と認識したものの抹殺に向かわせることは容易だった。サダムに対してまさにそのようなことが起きた。欠格のある諜報に基づき、浅薄な事象が重ね合わされ、サダムは大量破壊兵器(WMD)の所有者とみなされた。

ブッシュの国務長官コリン・パウエルは、WMDの報告された隠し場所の地図と写真を完備し、国連で手の込んだスピーチを行った。しかしながら、世界の多くは確信しておらず、自身の専門家をイラクに派遣し、WMDを探す不毛な調査をしていた国連は、戦争を認めることを拒否した。

サウジアラビアの外務大臣サウード・アル・ファイサルはアメリカの放送局PBSの番組「フロントライン」で深刻な懸念を表明した。「特に軍が解散され、政府がお払い箱になった後、彼ら(イラク兵や官吏)に何が起ころうとしているのか。もしそうなったとき、だれがイラクを支配するのか」と彼は言った。

「サダム・フセインはおそらく200万人でイラクを支配していた。アメリカとその同盟国は約15万人である。どうやってそれを機能させるというのか。」

にもかかわらず、ワシントンはイラク攻撃する計画を仕立て上げた。アラブニュースのページでは、サウジアラビアが、最も近い西洋の盟国であるアメリカ対し、代わりに制裁を要求すべきだと、どのように助言したかを全面的に扱っている。

1990年代にサダムがクウェートに侵攻し、アメリカとサウジアラビアの解放軍が彼の軍隊をすりつぶした後でさえ、リヤドは、ワシントンがサダムを権力から排除しないよう納得させた。サウジアラビアの官吏は、サダムの排除によって地域が混乱に陥り、イランに大暴れする絶好のチャンスを与えてしまうことを知っていた。

後に明らかになるように、サダムの排除は、イラクやより広範な地域に恐ろしい暴虐をもたらした。アフガニスタンでひどい打撃を受けたアルカイダは、はね戻って、イラクで、理想的でとても肥沃な成長基盤を見つけた。

Key Dates

  • 1

    アメリカ国務長官コリン・パウエルが国連安全保障理事会で講演し、大量破壊兵器の所有が報告されているという、イラク侵攻の理論的根拠を提供した。

    Timeline Image 2003年2月5日
  • 2

    アメリカの航空機が、バグダッドに猛烈な攻撃を開始した。衝撃と畏怖が再演され、イラクの対ミサイル砲台、航空機、電力設備を壊滅した。大統領宮殿が攻撃された。

  • 3

    ジョージW.ブッシュ大統領は主要な戦闘作戦の終了を宣言した。彼は、ロッキード社のS-3バイキングに乗って空母エイブラハム・リンカーンに着陸し、イラクでの主要な戦闘作戦の終了を知らせるスピーチを行った。

    Timeline Image 2003年5月1日
  • 4

    9か月の潜伏ののち、サダム・フセインが確保された。

    Timeline Image 2003年12月13日
  • 5

    イラク暫定政府のインチキな裁判の後、サダムは処刑された。アメリカは調査を延長したが、イラクで大量破壊兵器が発見されることは一度もなかった。

    Timeline Image 2006年12月30日

しばらく後、ISが頭角を表した。頃合いを感じ取り、イランが入り込み宗派戦争を始めた。何千もの死者が出た。テヘランとその多くの殺人的民兵は即席爆発装置(IEDs)を使い、破壊的な影響を及ぼした。

アラブニュースのシニアスタッフメンバーとして、私は1面の記事や写真を選択するチームに属していた;当時のそれらのいくつかはいまだに我々の記憶に深く刻みついている。2003年3月19日の1面には、カウボーイハットをかぶったブッシュと「カウボーイ時代の最高の潮時」という見出しが載っていた。

3月18日には同じく1面で、ファハド国王の王国への宣言を取り上げていた。「王国がイラクに対する戦争に参加することはどのような状況でもないだろう。軍隊がイラクの領域に1インチとも踏み入れることはないだろう」と宣言していた。

48時間のブッシュからサダムへ与えられた最後通牒が過ぎたら、バグダッドは次の夜にでも爆撃されそうだった。クウェート、ヨルダン、ワシントン、そしてもちろんバクダッドから膨大な報告があった。

アラブニュースには、ジッダのニュースルームでレポートを整理する、通信記者が現場にいた。2003年3月21日版のヘッドラインは「バグダッドが燃え立った、宮殿、サダム一家の住処が航空爆撃の標的にされた」だった。

続く夜ごと、アメリカは少なくとも3000の衛星誘導の爆弾、巡航ミサイルをイラクに向けて発射した。イラクの大量破壊兵器(WMD)は見当たらなかった。「編集者への手紙」のコラムで、読者が見つからないWMDのことを「大衆欺瞞兵器」として引用していた。

「地域は戦争による帰結に被り続けている:テロリズムの増加、政治的不安定、急進主義の温床化。実質的にすべてのケースで、もたらされた結果は戦争自体よりもはるかに深刻である」
Siraj Wahab

とりわけ国連が戦争を認めていなかったために、サウジアラビアでは激しい批判が起こった。2003年3月21日版のある記事では、サウジアラビアのヨルダン人ジャーナリストAdnan Jaberが、「政治的不安定が急進主義の温床を提供してしまうため、戦争はテロリズムを減らすのではなく増加させてしまうだろう。」と語ったと引用された。

彼の言葉は深遠だった。まさに彼が言った政治的不安定によって、アメリカ人がおろかにも解散した、サダムの軍隊の多くの軍人が、目的もなく母国を荒廃させた侵入者を殴りつけるために、ISやアルカイダに参加することにつながった。




2003年3月19日のアラブニュースアーカイブの1ページより

すべての戦争と同じように、滑稽な安心を感じる場面もあった。我々はみなニュースルームのテレビスクリーンのまわりに集まり、サダムの有名な情報相、モハメッド・サイード・アル・サハフに聞き入った。彼は滑稽な主張を、毎日メディアで発言していた。

現実は正反対であったのだが、彼によるとサダムの軍隊は勝利の間際だった。アメリカの「衝撃と畏怖」の執拗な押し売りが、イラク軍の無抵抗での溶解をもたらした。後で公表されたことだが、イラクの兵士たちは、単純に彼らの制服を投げ捨て、ISやアルカイダに参加しゲリラ戦を選んだのだった。

地域は戦争による帰結に被り続けている:テロリズムの増加、政治的不安定、急進主義の温床化。実質的にすべてのケースで、もたらされた結果は戦争自体よりもはるかにが深刻である。アラブニュースは、戦争とその余波を報じる良い立場にあった。そして、今日のジャーナリズムにかわらず専心し責任を持って取り組み続けていることに誇りを持っている。

  • Siraj Wahabはアラブニュースの編集マネージャー。イラク侵攻の間、スタッフのシニアメンバーだった、19981月から新聞に参加している。
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