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トルコ公正発展党(AKP)の政権掌握

2002年11月3日の総選挙でのAKPの地すべり的勝利は、トルコの歴史における転換点となった。(Getty Images)
2002年11月3日の総選挙でのAKPの地すべり的勝利は、トルコの歴史における転換点となった。(Getty Images)
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21 May 2020 09:05:26 GMT9
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ヤサル・ヤキス

  • トルコが、アラブ諸国の問題には干渉しないという旧来の政策から逸脱したとき、アラブ諸国との関係は損なわれた。

トルコ・アラブ間の関係は、エルドアンの党の新オスマン主義アプローチによって損なわれた。

要約

2001年8月14日、前イスタンブール市長レジェップ・タイイップ・エルドアンは、非合法化されたいくつかのイスラム主義政党の指導者たちとともに、公正発展党(AKP)を結成した。それ以来AKPは、トルコの政治を動かしてきた。

2002年11月3日の総選挙においてAKPは地すべり的な勝利をおさめた。これは、1923年のトルコ共和国建国以来初めての、イスラム主義をルーツとする政党による勝利であったが、トルコの歴史における転換点となった。

この勝利がトルコの世俗主義政体への脅威となることを、多くの人々が恐れたが、エルドアンは、「常識が通用するトルコを築く」と誓い、「我々の政府のもとで、トルコは世界と良好な関係を保つ」と約束した。

エルドアンは2003年から首相を務め、2014年にトルコの第12代大統領となった。世俗民主主義の価値観を維持するという約束の不履行や汚職に対する非難にもかかわらず、また、2016年には軍によるクーデタ未遂があったものの、AKPは過去17年間にわたり権力を握ってきた。

しかし、トルコの民主主義体制を損なった、大統領権限の拡大を問う2017年の国民投票では、僅差で勝利した。

アンカラ:私は、前大統領アブドゥッラー・ギュルに誘われて、トルコ公正発展党(AKP)に参加した。私がリヤドに駐在する大使で、彼がイスラム開発銀行の経済専門家だったときに、私たちは出会った。私たちは以来ずっととてもよい関係を保っている。

 

Key Dates

  • 1

    前イスタンブール市長レジェップ・タイイップ・エルドアンが保守派の公正発展党(AKP)を結成する。

    Timeline Image 2001年8月14日
  • 2

    トルコ総選挙でAKPが地すべり的勝利をおさめる。 2007年7月22日:AKPは総選挙で過半数を維持する。2011年の選挙でも引き続き過半数を維持する。

  • 3

    51パーセント以上の得票率で、エルドアンが大統領に選出される。

  • 4

    AKPは総選挙で過半数を維持できず、議会は絶対多数の政党がない状態となる。

    Timeline Image 2015年6月7日
  • 5

    エルドアンは解散総選挙を指示し、その結果AKPが過半数を再び獲得する。

  • 6

    「民主的・世俗的な法の支配が現在の政府によってむしばまれている」ことを懸念する軍の一部によるクーデタ未遂が起こり、その後、戒厳令がしかれ、公務員の大規模な逮捕、追放が続く。

  • 7

    AKPは、首相職を廃止して大統領権限を大きく拡大し、トルコの政治制度を議会制から大統領制に移行させる国民投票に、僅差で勝利する。

  • 8

    AKPは極右の民族主義者行動党と選挙連合を組み、総選挙で過半数を獲得する。エルドアンは大統領に再選される。

    Timeline Image 2018年6月24日

創立メンバーの中で国際関係に熟知していたのは私だけだったので、党の同僚たちは、党の綱領の「対外関係」の章の草案は私が作成すべきだと考えた。以下は、トルコと中東との関係について、当時私が書いたものである。「トルコは、中東の全ての国々と、強力な歴史的・文化的関係を維持する。AKPはこの基礎を踏まえ、この貴重な財産を維持するため、全ての分野において彼らと協力する。AKPは、不和をなくし全分野における関係を強化するために、努力を惜しまない」

私たちが選挙に勝利し、私が外務大臣になったとき、これらの公約を実現することにすぐにとりかかった。AKPが政権をとってから数ヵ月後には、AKPが全議席の3分の2を占めていたトルコ議会は、イラク北部で第二戦線を開くという米国の提案を拒絶した。米国の侵入はアラブ国家イラクにとって災難をもたらすことに他ならないと考えたからである。

AKPは、中東地域及びさらに広い地域における諸国との関係を強化した。AKPは全ての国との関係において穏健さを優先させた。2008年の国連安全保障理事会の非常任理事国選挙では、トルコは192カ国中151カ国から支持された。

サウジアラビアに数年間住んだ経験から、ギュル首相も私もサウジアラビアとより緊密な関係を築くことの重要性を痛感していたので、関係強化に優先権を与えた。この2国間には、すでに数世紀にさかのぼって強い関係があった。1980年代後半には当時のトルコ大統領トゥルグト・オザルとサウジのファハド国王がこの良好な関係をさらに推進した。彼らは、いくつかの分野での協力関係を発展させた。私は当時、駐リヤド大使であったが、サウジアラビア当局は私に対し門戸を全て開放し、サウジ政府はトルコとサウジの友好への貢献に対して、アブドゥルアズィーズ国王勲章(第一等)を私に授与した。

サウジアラビアに数年間住んだ経験から、ギュル首相も私もサウジアラビアとより緊密な関係を築くことの重要性を痛感していた

ヤサル・ヤキス

この動きは、サウジのアブドゥッラー国王が2006年と2007年にトルコを訪れたときにさらに加速した。2回目の訪問は、イスラム協力機構のサミットと組み合わされた。ギュル大統領とレジェップ・タイイップ・エルドアン首相は、大統領宮殿で外国の元首を迎える慣例に反して、アブドゥッラー国王を滞在先のホテルに訪問した。これは、国王に対する歓迎の意と、トルコの二大指導者がサウジアラビアをいかに重要視しているかを示すものであった。

この2国は、米国主導の反ダーイシュ連合でも協力したが、トルコの関与は他の国々ほど強いものではなかった。2014年8月サウジアラビアの大ムフティー、シャイフ・アブドゥラアズィーズ・ビン・アブドゥッラー・アル・シャイフは、「過激主義・軍国主義の理念とテロリズムは、イスラムの一部では決してない」といって、ダーイシュを避難した。その同じ時期、不幸な偶然だったが、当時のトルコ首相アフメト・ダウトオールは、ダーイシュを「怒れる若者の集団に過ぎない」と過小評価する表現を使った。このダーイシュの脅威を見くびる試みは、彼が「未来」という新政党設立を宣言した今、前面に押し出されている。




2002年11月11日のアラブニュースのアーカイブより。

アラブ諸国の問題に干渉しないというトルコの伝統的な政策からの逸脱は、シリアとリビアのムスリム同胞団への軍事援助、エジプトのムスリム同胞団への政治的支援とともにはじまった。AKPはムスリム同胞団のイデオロギーに強く影響を受けていたからである。大半のアラブ諸国とカタールの間に分断が起こった際には、トルコはカタールの側についた。これもまた、おそらくムスリム同胞団への傾倒によるもである。

「現在のトルコ政治の腐敗を完全になくし、公正と正直さをもって行動する指導者を、トルコ人は求めている」

2002年11月5日のアラブニュース社説より。

トルコ共和国の建国者、ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、1934年、外務次官に「トルコにとって、多くのアラブ諸国との緊密な関係は貴重な財産である。我々はこれを維持し強化しないといけないが、これがアラブ諸国間の問題に干渉することになってはいけない。トルコは彼らから頼まれない限り、助言を与えようとしてはいけない」と指示した。トルコは今や、その正反対のことをしているのである。

ダウトオールの新オスマン主義イデオロギーは、損なわれた関係にさらに損害を与えた。トルコの学校のカリキュラムでは、オスマン帝国は中東とバルカン半島に平和、公正、安定をもたらしたと述べられている。トルコでは多くの人々がこういった考えを抱いているが、他の典拠から歴史を学んだ者は、中東やバルカン半島においてオスマン帝国の遺産はむしろ否定的な見地から記憶されていることを知っている。

トルコは、この古いイデオロギーは忘れ、オスマン帝国は100年前に崩壊し、旧オスマン帝国領内の国々との関係は現在の状況に基づかなければいけないということを、覚えておく必要がある。

  • ヤサル・ヤキスはトルコの元外務大臣で、与党・公正発展党の創立メンバーである。Twitter: @yakis_yasar
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