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ベイルートで米国海兵隊が爆破攻撃される

自爆者たちはイランおよびイスラミック・アマル運動を自称する運動に関係していた。 (Getty Images)
自爆者たちはイランおよびイスラミック・アマル運動を自称する運動に関係していた。 (Getty Images)
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06 Jun 2020 09:06:50 GMT9
06 Jun 2020 09:06:50 GMT9

ナジア・フッサーリ

レバノン首都の兵舎における自爆攻撃はレバノン紛争にイランが関わっていることを示す兆候だった 

概要

1983 10  23 日、ベイルートに駐屯する海兵隊を狙った自爆攻撃により、アメリカ軍兵士 241 名が死亡、数十名が負傷した。この爆発は第二次世界大戦以来最大の非核兵器爆発と形容された。

この自爆攻撃はレバノンの首都で起きた自爆攻撃としては 2 度目であった。最初の爆発はその年の 4 月にアメリカ大使館を標的として起き、大使館およびその周辺において 17 名のアメリカ人を含む 63 名が死亡した。

自爆者たちはイランおよび「イスラミック・アマル運動」と呼ばれる団体と関連を持っていた。運動のレバノン人リーダーであるフセイン・ムサウィはイラン革命との関わり合いを肯定し、その関わりは「国家とその元首」のそれと同様なものであると述べた。

2 度の爆発は、ベイルートまで到達したイスラエルによる占領と、それが招いた首都を防衛するための多国籍軍の進駐によって引き起こされたレバノン内戦の真っ只中に起きた。 2 度の爆発によってベイルートがさらなる死と破壊をもたらす混沌に陥る中、まずは米軍、続いてフランス軍が撤退した。

ベイルート: 1983 年 10 月 23 日午前 6 時 25 分頃、ベイルートおよびその郊外は山岳地帯に至るまでの全域で激しく揺れた。これは音がかき消されたかのような爆発によるものであった。

人々ははじめ地震が起きたと思ったのだが、 7 分後に街とその周辺は 2 度目の大きな爆発によって再び揺れたのだった。

タイムライン:

  • 1

    米国、フランス、イタリア各軍主体の多国籍平和維持軍がパレスチナ解放機構戦士たちの撤退を監視するためベイルートに派遣される。

    Timeline Image 1982年8月24日:
  • 2

    米海兵隊が撤退。

  • 3

    レバノン大統領バシール・ジュマイエルが暗殺される。

    Timeline Image 1982年9月14日:
  • 4

    イスラエル軍の援助を受けたキリスト教武装組織がサブラーおよびシャティーラの難民キャンプで数百名のイスラム教徒を虐殺。

    Timeline Image 1982年9月16-19日:
  • 5

    米海兵隊がベイルートに再び展開。

  • 6

    ベイルートのアメリカ大使館爆破により、アメリカ人 17 名を含む 63 名が殺害される。

    Timeline Image 1982年4月18日:
  • 7

    ベイルートにある海兵隊拠点におけるトラック爆弾により、米軍兵士 241 名が死亡、 128 名が負傷。 2 台目のトラック爆弾が数キロ離れた場所に駐屯していたフランス軍落下傘連隊兵士 58 名を殺害。

    Timeline Image 1983年10月23日:
  • 8

    米国の裁判所がトラックによる爆破攻撃はイランの指示を受けたヒズボラが実行したと認定。

当時、私はレバノンの新聞社アス=サフィールにおいて従軍記者として勤務していた。のちに山岳戦争と呼ばれる郊外南部、山岳地帯、ならびにハルーブ地域で発生した社会主義進歩党およびその支持者とレバノン国軍の衝突によってベイルートは包囲状態にあった。

南部ではイスラエルによる占領に対して、左派やパレスチナ人勢力と関係を持つレバノン人戦士たちの武装組織が抵抗を続けていた。1982 年にパレスチナ解放機構の指導部ならびに戦闘員たちがイスラエルによるレバノン侵攻により撤退し、イスラエルがベイルートを占領したことを受けて、当時アメリカ軍、フランス軍、イタリア軍を含む多国籍軍はまだベイルートに駐屯していた。

数分後、ベイルート国際空港通りの海兵隊現地司令本部およびジンナーにあるフランス軍落下傘連隊本部が正体不明の自爆者たちによる 2 度にわたる爆破によって攻撃されたことが明らかになる。自爆者たちは大量の爆薬が積まれたトラック 2 台で、要塞化されたこれら 2 箇所の本部に突入したのだった。

レバノンが前例の無い規模の自爆攻撃に晒されたのはこれが 2 度目であった。最初の攻撃はその 6 ヶ月前、 1983 年 4 月 18 日にベイルートのアイン・アル=ムレーゼ地区にあるアメリカ大使館を標的として起きていた。

海兵隊本部における損害は甚大なものであった。コンクリート建ての 4 階がすべて崩落して瓦礫の山と化し、炎がまだくすぶっていた。人々の叫び声、血、飛び散った体の一部、そして混乱であたりは溢れかえっていた。これが私の脳裏に焼きつかれた記憶であり、ジャーナリストである私たちが混沌の中に見るものである。 

その前夜は土曜日で海兵隊員たちは彼らへのエンターテイメントを興行するために米国から来ていたメガバンドのミュージシャンたちとのパーティーを楽しんでいた。爆発は彼らが寝ている時に発生したのだった。

その日のうちに自爆攻撃の犯行声明を出す組織は無かったが、アス=サフィール紙が数日後に受け取った「イスラーム聖戦機構」による犯行声明を公表した。

爆発からおよそ 48 時間後、米国はアマル運動とその分派組織であるフセイン・アル=ムサウィ率いるイスラミック・アマル運動が犯行に関与していたとする非難声明を発表した。当時、現地の新聞が報道した内容によると、「自爆攻撃の準備はバールベックで行われ、また爆発に使われたトラックはアマル運動本部前に停車していたことが目撃されていた」という。

当時のアメリカ副大統領ジョージ・H・W・ブッシュが爆発の翌日レバノンを訪問し、こう述べた。「我々はテロリズムによって我が国の外交方針の決定を左右させることは許さない」

「レバノンにおける暴力行為は、それがどれほど血生臭く心を痛めるものであるにせよ、この国とっては日常に近いものとなってしまった」

アラブ・ニュースの論説(1983 年 10 月 24 日付)より

その後シリア、イラン、ならびにアマル運動はこれら 2 度の攻撃への関与を否定した。 

フランスは自国軍に対する攻撃の報復として「イランの要人が駐在する」とされるバールベックのシーク・アブドゥラ兵舎への戦闘機 8 機による爆撃を行った。当時フランスは「攻撃によって 200 名を殺害した」と発表していた。

イスラミック・アマルの幹部は声明を出して「バールベック地域にイランが施設を維持している」ことを否定したが、同時に組織の「イランにおけるイスラム革命との関係は、国家とその元首のそれであり、我々は自らを守るものである」と強調した。

11 月 23 日にレバノンの内閣はイランおよびリビアとの関係を断つことを決定した。当時レバノンの外務大臣であったイーライ・サレームは、その決定は「イランとリビアがベカー高原に軍事力を維持していることを認めた」ため為された、と述べた。

アラブ・ニュースのアーカイブにある1983 年 10 月 24 日のニュースを伝えるページ。

アス=サフィール紙は外交関連筋の話として、「数多くの警告にも関わらずイランがレバノン各地で実行した非合法的な関与、行為、活動によってイランとの関係は悪化した」と報道した。

10 月の爆破攻撃はレバノンにおける地域勢力ならびに国際勢力のバランスが崩壊し、レバノン国土におけるイランの影響力が強大化したことの最たる兆候であった。

「1982 年以前ベイルートでは様々な反体制派が混在した。これには知識層エリートのいわゆるベルベット抵抗軍やパレスチナの軍事キャンプやベカー高原および南部地域のキャンプで訓練された武装抵抗組織などが挙げられる」とアラブ・ニュースに述べたのは戦略研究家のワリド・ヌージェッド氏。

「イランのシャーに対する反体制派はその 1 つであった。 1982 年までのベイルートは地域や国際社会の主流派と敵対する組織にとってオアシスだった。同年にイスラエルがレバノンに侵攻しベイルートを包囲してパレスチナ解放機構の追い出しに取り掛かった。これはイスラエルがベイルートに侵入しないことの条件としてパレスチナ人たちがレバノンを出国することと取り決めた国際協定に基づいたものだった。」

ヌージェッド氏によれば、パレスチナ人勢力はレバノンを離れたが、レバノンにおける PLO の構成員であったレバノン人戦士たちはそれに従わなかったという。その多くはレバノンの左派各党の構成予備員となったシーア派であった。 

「海兵隊およびフランス軍落下傘連隊本部に対する爆破攻撃によって多国籍軍はレバノンから撤退し、ベイルートはその防衛力を再び失うことになった。そのイデオロギーが左派と無関係な新たな抵抗組織がその数を増した。イスラミック・アマル運動とイスラエルに対する抵抗というそのスローガンは日の目を見ることとなった」とヌージェッド氏は述べた。

1985 年、「イスラム教共和国建国を目指す革命を指揮するジハード組織」を自認するヒズボラが発足を正式に宣言した。この勢力はレバノンおよびパレスチナの左派組織の支援を受けていたが、特にソビエト連邦崩壊後それは顕著になった。「国家としての抵抗の象徴の抹消が見受けられ始めたが、その意図は抵抗の勢力図からヒズボラを除く全ての勢力を排除することにあったと感じた」とヌージェッド氏はいう。 

続けて、同氏は「ヒズボラとアマルの間で発生し数十人の被害者を出した暴力的な抗争と、その結果レバノンにおけるシリア軍の軍事力を元にヒズボラが支配権を確立したことよって、イランの関与は明確になった」とする。「粛清を恐れた多くの作家、知識人、研究者、メディアがヨーロッパへと渡り、ベイルートは不毛の街となった」という。

  • ベイルートを根拠に活動する本紙記者ナジア・フッサーリは米海兵隊兵舎が爆破された当時、レバノン紙アス=サフィールの従軍記者であった。
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